23
瓦礫の山から這い出ると、周囲は崩れた廃墟ビルの残骸で埋め尽くされていた。ビル全体が崩壊し、鉄筋やコンクリートの破片が無造作に積み重なっている。粉塵が漂い、目と鼻を刺激する。周囲を見回した。
瓦礫の中から、かすかなうめき声が聞こえた。オレはその声の方へ足を向けた。声の主は、カレンだ。彼女の上半身は瓦礫の隙間から顔を覗かせているが、下半身は大きな鉄骨とコンクリートの下敷きになっている。顔は蒼白で、瞳には微かな光が残っている。オレの姿を見ると、カレンの唇がわずかに動いた。
「イーサン……」
その弱々しい声を聞き、オレは急いで瓦礫をかき分ける。
「しっかりしろ、今助けてやるからな!」
だが、瓦礫は重く、びくともしない。焦りを感じながらも、オレはさらに力を入れて鉄骨を押しのけようとするが、動かない。カレンは弱々しく瞬きをしながら涙を流し、ごめんなさい……と繰り返す。
「何を謝ってるんだ? そんなことより、助けるからもう少し我慢してくれ」
カレンは震える声で、途切れ途切れに話し始めた。
「お腹に……子どもがいるの……あなたの子よ……」
「子ども?」
イーサンは動揺しながらも、彼女の言葉に耳を傾けた。カレンはめいっぱい微笑む。
「あなたとの生活は幸せだった……とても、とても……こんな私でも、幸せになれるんだって、思った……」
カレンの息は粗く、空気が満足に入りきらないのか、喉元でヒューヒュー音がしている。何かを言おうとして咳込み、血を吐いた。
「もういい、しゃべるな……早くこいつをどかさないと……」
でも……とカレンは続ける。
「私は……罪を、犯したの……」
カレンの口元は自分ではどうしようもできなくガチガチと震えて音を立てる。その目からは絶えず涙が流れ、土の色を変える。オレは言葉が出ず、彼女の顔を見つめたままだった。
「私のせいで……カルテルに、弟が……人質に……なんとか、して、戻って……助けたかった……でも……」
彼女の声はますます弱くなり、涙が流れ続けた。オレは無言で彼女の手を握り締めた。彼女の手は冷たく、ほとんど力がない。
「ごめん、なさい……イーサン……あなたまで、うらぎ、って……」
そう言ったきりカレンは何も喋らなくなった。呼吸もしているのかどうか分からないくらいに弱い。彼女の上半身を掴んで瓦礫から引き出そうとした。しかし、彼女の体は瓦礫にしっかりと埋まっており、何かが引っかかっているようだった。さらに力を込めて引っ張ると、体が瓦礫からずるりと抜ける。
「カレン、行くぞ、一緒にかえ……」
そう言って改めてカレンの方に目をやると、そこには上半身だけが残った体だけがあった。オレの手には血にまみれたカレンの上半身だけが残されている。カレンの目からはすでに光は消えている。口元だけは静かに笑っていた。
24
オレは崩れた瓦礫の中で、カレンの冷たくなった体を抱きしめたまま、何も考えられずにいた。カレンの声を忘れたくないと最後の言葉を必死に頭の中で反芻している。腕の中で彼女の体はもう動かない。血の気を失った顔に貼り付けたような笑顔は、カレンだったモノだ。
どこからか微かな泣き声が聞こえてきた。子どもの鳴き声だった。オレは音のする方に顔を向けた。瓦礫の山の中に、最後の運び屋の仕事で運んだ箱が落ちているのを見つける。カレンをそっと下ろし、泣き声の方へと向かう。箱は鉄製で鍵がかかっていたが、衝撃によって丁番が壊れ、蓋がずれていた。中を覗き込むと、そこには小さなカンガルーの子どもが泣いている。
泣きながら震えるその子どもの小さな腕には管理番号が刻まれている。オレは目を細めてその番号を読み取った。
――#20567-UNKNOWN
無名の子ども、何も持たない子。
オレはその子どもを抱き上げた。子どもは一瞬びくりと震えたが、すぐにオレの胸に顔を埋め、泣き止んだ。小さな体の温もりがオレの腕の中で感じられる。
「ジョーン……お前の名前はジョーンだ」
オレは子どもを抱きながら、初めてリングに立ったときのことを思い出していた。そのときの相手の名前がジョーンだった。
みるからに貧弱で、痩せ細った体に目つきもおどおどしていて、なんでこんな場所にいるんだ、と誰もが思うような奴だった。戦う前から体は小刻みに震えていて、観客からも笑い声が漏れていた。でも、その男は強かった。勝ちはしたが、苦戦した。
あの時、オレは油断していた。すぐに勝てると思っていた。ゴングが鳴る頃には夕飯のことを考えていた。ジョーンは果敢に攻めてきた。まるでなってないフットワーク。脇の甘いガード。しかしクリーンヒットはできず。がむしゃらなパンチがオレの体力を削り続けた。
自分への甘さは、勝負の甘さだ。相手を下に見れば、途端に自分もその相手と同じラインに落ちてしまうということだ。ジョーンから学ぶことは多かった。今頃何しているのはもう分からない。
カレンの体を見つめながら、オレは瓦礫を掻き分けて、地面に穴を掘り始めた。石を取り除き、土を掘り返し、カレンの体をその中にそっと横たえる。彼女の顔には静かな安らぎが宿っているように見えた。オレは土をかぶせ、彼女の上に大きな石を置いた。目を閉じて短い祈りを捧げる。
その時、地面にちぎれて落ちている小袋に気づいた。カレンのお腹から落ちたものだ。オレはそれを拾い上げ、手で握りしめた。小さな命の重みがその中に詰まっているようだった。
辺りを見回すと、街には妙な静けさが漂っている。さっきまでの爆撃や銃声はどこへ消えたのか、まるで何事もなかったかのような静寂だ。それが異様なほどに不気味だった。
オレはジョーンをしっかり抱きしめ、立ち上がる。ここにはもういられない、ジョーンと一緒にこの街を離れよう。何もかもを捨てて、もう一度どこかで新しい生活を始めるしかない。オレがその場を離れようと足を進めたとき、目の前に大きな影が現れた。
その影の主は、白いゴリラだった。ノクタルシアで敗北を喫した、あの唯一の相手だった。筋肉質で巨体を持つそのゴリラは、無表情でオレを見下ろしている。オレは一瞬、彼が助けてくれたのかと思った。
「無様だな」
ゴリラは冷たく吐き捨てるように言った。
「お前はまた大切なものを守れなかった」
その言葉がオレの胸に突き刺さる。何も言い返せなかった。オレの手の中でジョーンが小さく身を縮める。
「じきに夜が明ける。この街にお前の居場所はもうない」
白いゴリラはそれだけを言うと闇の中に消えていった。ジョーンに目をやる。
「一緒に歩くにはまだ早いな。まずは針と糸を探そう。これをオレの腹に縫いついけて、お前はそこに入ってればいい。守ってやる」
オレはそう言って。ジョーンと共にスラムを後にした。日の出はもうすぐそこまで迫っている。