5
夜の闇を引き裂くように、どこからか銃声が響いた。それを合図にするかのように、すぐ近くでサイレンの音が鳴り始める。灯りのない街では赤色灯の回転が一層まぶしく空に反射する。始まっちまったのか? オレは路地の影に身を潜めながら、周囲を見渡す。
この街じゃ、銃声もサイレンも珍しくはない。むしろ、静かな夜の方が不安になるくらいだ。理由もだいたい分かってる。サツが動くのなんて盗みか殺しかくらいのものだった。だが、それもパフォーマンスだってことは誰もが分かってる。ブタ箱に入りたくないなら金をよこせ、と。オレらは勝利を金に換えてるが、サツは『許し』を金に換えてるってわけだ。逃げるのは捕まるのが怖いわけじゃない。金を取られるってのがたまらなく怖いんだ。この街では正義も悪も、金に換えられるものは何でも金にする。
最近では、何やら上物のドラッグが入ってきたとかで、ギャング同士の抗争も激しさを増している。白い粉やカプセル、液体といった形で流されていて、それぞれの派閥が取引に熱心になっている。力のある組織ほど、より多くのドラッグを売ることができる。だから力を鼓舞するために血を流す者が増えているのも現状だ。
だがオレは、この上物だと言うには何かうさん臭いものを感じている。気づいたときには、この街のどこにでも存在しているようになった。まるで突然、空からでもばら撒かれたみたいに。
以前は、そんなドラッグなんて手に入らなかった。ノクタルシアで命からがら数十グラムばかりを手に入れた売人が、適当なものを混ぜてかさ増しした程度の粗悪品ばかりが出回っていた。それでも数が少ないから高く売れたし、そんなゴミをかき集めたようなドラッグでも、取った取られただので命を削り合っていたくらいだ。それがどうだ? 今じゃ、まるで空気みたいに至る所にある。
この街は所詮、きらびやかな都市が放り出した汚物みたいな街だ。便所にダイヤなんて落ちてるか? 便所にダイヤを落としてくれるお人よしがいるなら会ってみたいってもんだろ。そんな奴はいねえ。ギャングたちは自分たちの利益にばかり夢中で、その裏にある意図を考える奴なんていやしなかった。
6
暗闇の中、オレはさらに身を縮め、路地裏の影を移動する。足元に転がる空き缶を蹴飛ばさないよう慎重に歩きながら、耳を澄ませて周囲の気配を探る。遠くでまた銃声が響き、続けて何発かの音が聞こえた。撃ち合いは止まないようだ。誰が撃っていのるか気になるところだが、巻き込まれちゃあ元も子もない。息を殺して、ひっそりと身を潜めるしかない。
目が闇に慣れてくると、道の向こうで小さな光が瞬いた。オレはピクっと立ち止まり、その光に目を凝らす。小さな炎が揺れている。タバコの火だ。誰かが道端でタバコを吸っているらしい。こんな状況下でも落ち着いてるようなその姿勢、まるで銃声とサイレンの音がただのBGMみたいに見える。オレは静かに近づき、その男の顔を確認する。男はタバコをくゆらせながらニヤついている。ヴィックだった。
ヴィックはいつもニヤついている。その笑顔は、まるで自分の頭の中で流れてる映像を楽しんでるような、そんな感じだ。何を考えてるのかまるで読めない。初めてヴィックを見たときもそうだった。オレが闘技場でファイトしている時、ヴィックは壁に寄りかかってタバコをくゆらせてニヤついていた。その目が妙に冷たくて、まるで刃物みたいだった。腹が立って仕方がなかったのを覚えている。アドレナリンが出ていたせいかもしれないが、あのニヤついた顔をぶちのめしてやりたくて右手を振り抜くと、それがちょうど相手のカウンターに入って、試合は勝利した。
「ヴィック、何やってんだ? こんなところで」
ヴィックは顔をこちらに向けることなく、見張りさ、と一言だけ口にしてタバコの煙を吐いた。
「あんたも知ってるだろ? 今夜はやべえんだ」
オレはうなずく。ドラッグを巡る抗争が過熱していて、ここ数日で急激に犠牲になる者が増えていた。ギャング同士がピリついているときは、空気が変わる。焦げ臭いにおいと湿った鉄の匂いがあたり一面を覆い、呼吸をするたび細かな粒子になった血の水蒸気が気管に張り付いてむせる。
ヴィックはタバコを深く吸い込んでから、ゆっくりと煙を吐き出しながら続けた。
「レッドスコルピオンが動き始めてる。つい先日も、ブロークンナイツの幹部が拷問にあったらしいが、アルヴァロの家にその死体が投げ込まれたって言うんだから、見せしめか何かのつもりだろう」
オレは顔をしかめた。レッドスコルピオン……あの連中はクルクタウン全域を支配下に収めているギャングだ。元軍人のサソリであるディアゴがリーダーを務めている。
いつだったかヴィックが、この街のことを教えてやるよ、とタバコをくゆらせながら饒舌に語りかけてきたことがある。
クルクタウンはもともと砂漠だった土地をゼノポリスが軍郷として発展させてきた街だったんだ。そこを取り仕切っていたのがサソリの種族だったんだが、クルクタウンは軍事力を背景に独立宣言をしたんだ。ゼノポリスは激怒して経済制裁を加えたが、クルクタウンは白旗を上げなかった。今思えばただの馬鹿の判断だったとしか思えないが、それからは冷戦状態のまま街は衰退し、スラムが増え、治安は最悪になった。そんな中、現れたのがディアゴだ。軍隊時代の仲間を集めてレッドスコルピオンを結成し、暴力で街を支配した。あいつらはギャングというより、まるで軍隊そのものだ。
問題はここからだ、とヴィックはタバコを指で弾き、火花を飛ばしながら声色を変えた。
奴らは誰よりも忠誠心が強い連中で集まってる上に、豪欲だってところがやっかいなんだ。そんな奴らが動くとき、街には必ず血の匂いが漂う。
オレはヴィックの言葉を思い出しながら、こいつは情報屋とか言っておきながら興奮するとしゃべりすぎるところがある、と声に出さず呟いた。
「ディアゴはアルヴァロのタマを狙ってる。ブロークンナイツの連中が気に入らないのさ。ここのスラムじゃアルヴァロが一番だ。何ならクルクタウン全域をディアゴからぶんどる気でいる。奴らがレッドスコルピオンの傘下になり下がるって選択肢は持ってないのさ」
アルヴァロは、ブロークンナイツのリーダーであり、左目は潰れていて、鋭い刃物で引き裂かれたような深い傷跡があるのが印象的だった。その傷の理由は知らないが、何か重い代償によってできたものだと噂されている。もともとレッドスコルピオンがこの地区も支配下に治めていたが、アルヴァロの出現によってその覇権が揺らいでいた。アルヴァロは頭のキレる奴だよ、とヴィックは続ける。
「筋肉バカのディアゴよりもよっぽどな。あのオオカミは反体制的な思想を掲げてカリスマになった。ディアゴのやり方が気に食わない連中をうまく取り込んだんだよ」
オレは一度、アルヴァロと出くわしたことがある。奴の目は鋭く、片方しかないにもかかわらず、まるで隙がなかった。オレは格闘家だからよく分かる。片目のハンディキャップは大きな死角を生み出す。死角を作るのは命取りだ。それなのにアルヴァロにはまるで死角がなかった。死角というもののほとんどは、心の隙間から生じる。それは油断とか動揺とか、そういった類いの微細な心の変化だ。アルヴァロの視線はひたすらに冷淡で冷酷だった。まるで心そのものが抜け落ちているような、そんな目だった。
「奴の目を見たことがあるならわかるだろう? あの目は復讐に魂を売った奴の目だ。何がそうさせたかは知らないが、簡単に折れるような奴じゃない。仲間が拷問を受けたところで動揺なんてするもんか。むしろそれを契機だと仕掛けるに違いねえ。戦争の始まりなんてそんなもんだろ?」
ブロークンナイツが自由を重んじる連中だからって甘く見るなよ、と言いながら、ヴィックは吸い終えたタバコを足でもみ消しながら、次の一本に火をつける。
「アルヴァロのやり方には容赦がない。口では甘いことを言ってるが、慈悲の心なんて微塵もない。裏での顔なんて見たことないだろ? オレは見たのさ、命乞いする奴の前で聖書を読みながら章が終わるごとに一発ずつ銃弾で関節を撃ち抜くんだ。ひどいもんだった……四肢の関節全部がなくなるまでやめなかった……顔色ひとつ変えずにだぞ? ジャックのやつも、そんな奴のもとにいて何を考えてるのか、時々わからなくなる。あいつはいい奴だよ、ジャックは……」
すると突然、問題はここからだ、とヴィックはタバコを指で弾き、火花を飛ばしながら声色を変えた。
「レッドスコルピオンもブロークンナイツも、この街で一番の興行になっている闘技場を欲しがっている。だが、闘技場を仕切っているのはオレたちホワイトアウトだ。そのおかげでギリギリ均衡が保たれていると言ってもいい」
ホワイトアウトは、白いヤギのゴムマスクを被ったギャング集団で、中立を保ちながら街の権力バランスを操作している。ヴィックもその一味ではあるが、ヴィックは暑苦しいと言ってゴムマスクはつけていない。ホワイトと名乗ってはいるが、その正体は黒いヤギの組織で構成されている。白き者というわけのわからない都市伝説にほだされて、白いマスクを被り、カルト宗教みたいな体裁をしているが、ただのギャングに違いはなかった。
闘技場を仕切っているといっても、地下の穴がつながったときにそこを闘技場にしようと初めにアイデアを出したのがヴィックで、その流れでホワイトアウトがそこの胴元になっているだけだった。だが、そのおかげで資金源を得たホワイトアウトが勢力を持ったのは確かだった。資金力の強さが組織の強さだからだ。そこが中立という立場を通すことで、血なまぐさい両組織の間に割って入って仲裁しているような役割にもなっていた。
「闘技場はあくまでこの街の娯楽だ、血なまぐさいもんじゃない。独裁であってはならないんだ。あいつらはこの街を自分らのものにしたがっている。そんなやつらが娯楽を保つなんてできやしない。確かに金のなる木ではある。でもそれは、オレたちスラムの人間にとっては希望の象徴でないといけないんだ」
その言葉に、オレはハッとした。ギャングの一味でそんなこと言う奴を他で見たことはなかったからだ。ギャングの中にこの街の未来を、スラムに住む者のことを考える奴がいることに驚いた。だが、それが組織としての建前なのか、ヴィック自信の本音なのかは分からない。
「だが……今の状況じゃあ、そのバランスも崩れるのも時間の問題かもしれねえなあ」
ヴィックはタバコの煙に混ぜて溜息を吐いた。
「だから、オレは見張りをしてるわけよ。どっちが先に仕掛けるか、見極めないとな」
オレはヴィックの話に耳を傾けながら、一瞬、街の未来を考えたが、オレごときがどうにかできる問題じゃない、と心の声でその妄想をかき消した。
「なあ、その原因はやっぱり例のドラッグなのか?」
ヴィックはようやくオレの方に目を向けた。薄暗い路地でも、その目の光が怪しく反射するのが見て取れる。ヴィックは小さく笑い、首をかしげた。
「さあな……ただ、どの連中もこぞって狙ってるのは確かだ。出所はブロークンナイツとの噂もある。すでに手に入れてるとなると……」
ヴィックは再びタバコを吸いながら考え込むような素振りを見せた。そして、ぽつりと呟くように答えた。
「……でもなんか引っかかるんだよなあ。それまでは、手に入れるのも難しかったドラッグも、今じゃどこの奴も持ってる。でもそのどれもが『ホンモノ』ではないとも言ってる。緊張状態のときは情報が命だ。デマを信じてしまったときにはそれが命取りになる。不用意に動けないのは確かだが、相手を潰すことが目的になってしまったら理由なんて何でもよくなるからな」
「なあヴィック、何か分かったら教えてくれ。何でもいい」
ヴィックは少し戸惑ったような顔をしたが、やがて短く笑った。
「お前にしちゃあ珍しいじゃないか。あまり首を突っ込むと、知りたくないもんまで知ることになるぞ、イーサン。だが……まあ、いいさ。後で後悔しないようにな」
その言葉には、どこか不気味な響きがあった。ヴィックが、じゃあな、と後ろ向きに片手を振ってその場を去った後に、ふと後ろから強い光が差し込んできた。振り向くと、サツが周りを取り囲み、オレに向けて銃を構えていた。強い光でろくに目も開けてられなくなっていたが、逆光でぼんやり見える銃を構えたそのシルエットにどこか懐かしさを感じた。
「撃て!」
中央にいるサツがそう叫んだ瞬間、数十発の銃声が鳴り響き、その全ての弾丸はオレを目掛けて飛んできた。