1
鉄の味が口の中に広がる。オレの拳は、相手の頬骨に深くめり込んでいた。目の前の男は、もう立つ気力を失っている。オレは一瞬だけその男を見下ろしたが、すぐに視線を外した。勝ち負けなんてどうでもいい。ここでは、生き残ることが全てだ。
観客のざわめきが遠くに聞こえる。勝者の名を叫ぶ声も、今のオレにとってはただの雑音《ノイズ》だ。オレは無感情な表情でリングを去る。拳は震えていたが、これは疲労のせいじゃない。興奮とも違う。苛立ちみたいなものだと思ってくれ。
いつからか、気づいたらオレはいつだって苛立っていた。息をすることなんて当たり前すぎて、溺れてるときくらいじゃないと気づかないだろ? オレはきっと息をするより苛立っているんだ。苛立ってるから殴るわけじゃない。殴ることで苛立っていたんだと気づかされる。でも、分からない。なんで苛立ってるのかも分からないんだ。
雑に仕切られたフェンスの一部に、ファイターが出入りするための穴が一か所空いている。オレは倒れた相手の意識が戻らないうちに、そそくさとその場をあとにする。観客がいくらオレに称賛を浴びせてようがお構いなしに、足早にその場から去る。
2
オレの名前はイーサン、黒いカンガルーだ。
ここはクルクタウンという街で、大陸を東西に二分して、東側がゼノポリスという経済都市と、西側がノクタルシアという歓楽都市とがくっつきあってる真ん中の南側に位置している街だ。目の前にケツがあればちょうど肛門くらいの場所にある。そんな街の北側にある、クロウクスラム地区という場所がオレの住処だ。
地上に出ると、街の臭いが鼻を突く。腐敗した食べ物、排泄物、薬品の匂いが混ざり合い、錆臭いスラム特有の重たい空気を生み出している。
地下の闘技場は、乾いたほこりに汗臭い酸っぱいにおいがまじり、熱気も相まって蒸し風呂みたいになる。その不快極まりない空間に何時間もいるくらいなら死んだ方がマシだと思えるが、地上に出たところで死んだ方がマシな気持ちに変わりはない。
この街では、命の価値は軽い。瓦礫のように積み上げられた廃材やゴミの山に囲まれ、生きるために争い、奪い合う。建物は崩れかけたレンガや鉄骨でできた即席のもので、雨風を凌ぐには十分じゃない。
死んだ方がマシに思える街でも、生きるか死ぬかは損得勘定だ。死にたい奴は勝手に死んでろと、誰もが思っている。ただ、自分が死ぬのは損だというのがここでの常識だ。損だと思うことはしない、それだけのこと。自分で死ぬ奴は、負け犬のエサにすらならない、と笑われて終わりだ。
3
どの家にもサツから身を隠すためにみんな地下を掘っている。隠れるにも、何日も身を埋めておくには即席で掘った穴だけでは都合が悪い。だから地下にも快適さを求めていくと、自然と穴は広がっていく。そうしているうちに、近隣同士の地下の穴と穴がつながっていって、しまいには隠れるだけにしては広すぎる空間ができてしまった。
じゃあ、快適の次には何を求めるかって? そう、娯楽だ。快適さなんてすぐに飽きてしまうだろ? だから娯楽が必要だった。まあ、快適というにはほど遠い土に囲まれただけの空間ではあったが、広さができるだけで快適だと思ってしまうくらいに、この街は居心地が悪かった。
娯楽は簡単だった。みんな何かに苛立っている。だから殴り合えばいい。シンプルだろ? 誰が一番強いかを競えばいい。腕っぷしに自信のないやつはファイトに金を賭ける。ずる賢い奴はその場を仕切って金に換え、頭の悪い奴は殴り合って勝利を金に換える。金のにおいは蜜のにおいと同じだ。蟻んこが寄りたかるようにこの場所はみるみるうちに盛況の場となった。そうしてこの張りぼての闘技場が、この街で一番の金を生む場所となったわけだ。
4
夜が深まると、街灯もろくにないこの街は闇に包まれる。電気なんてものはほとんど通っておらず、住人たちは近くの街から盗んでいるのが現状だ。違法(法律すらもあってないようなもんだけど)に電線を引っ張り、わずかな電力を奪い取る。それがこの街の生きるための知恵だった。だが、その電気も不安定で、つく日もあればつかない日もある。灯りがつく日は「今日は調子がいい」と、誰もがほんの少しだけ安堵する。何か良いことが起きるんじゃないかと思いながらも、現実はさほど変わらない。
そんな電気を盗んでいる先は、隣町のノクタルシアだ。ノクタルシアは、この街とは正反対の世界だ。夜でも昼のように明るく、巨大なビル群がそびえ立つその街は、ネオンの光に包まれている。富裕層が集まり、贅沢に溺れている場所だ。スラムの住人たちからすれば、まるで別の惑星にあるかのような、手の届かない世界。オレたちが盗むのは、その街の一部の輝きに過ぎないが、そのわずかな光でも、この暗闇の中では貴重な希望になっている。
だが、そんな光ですらこの街の現実を変えるだけの力はないようだ。ノクタルシアの輝きに比べれば、オレたちの住むこの場所はただの闇だ。オレはこの街に夜が来る度、いつも誰かのせいにしている。変わらないのは、別に自分が悪いわけじゃないんだ、と。