今から××年前の二十歳の年の瀬、私は中国のある小さな都市にいました。日本語教師としてそこに派遣され、小さな私立大学と専門学校で日本語を教えていたのです。
上海から電車で22時間かかり、中国人からも「あんな田舎に行っていたの?」と異口同音に言われるような所でした。
滞在期間はわずか半年あまりですが、日本ではなかなか体験できない出来事がたくさんあったので、気の向くままに回想録を書くことにしました。自分の名前をネットで検索すると、その頃の生徒が書いたと思われる論文の中に都市名や私のフルネームが出てくるため、身バレしないよう地域や年代などの詳細は伏せます。
思いつくままに書くので時系列になっていない上、内容もまとまりがありませんが、お暇があったら読んでくれると嬉しいです。
まずは、今の時期になると毎年思い出すものから。
当時の中国は、沿岸部は急速な発展を遂げていましたが、内陸部はまだまだ経済成長から取り残されている状態でした。
全国的に日本語学習熱が高まっており、K市でも「新しく設立する私立大学に日本語学科を作るので、日本語教師の資格がなくてもいいから日本人来てー!」という状態で、人づてにその仕事を紹介された私は二つ返事で行くことにしました。私はその時点で日常生活には不自由しない程度の中国語を習得済みで、日本語指導法を通信教育や書籍で学んでいました。
「日本人であれば誰でもOK」と言っていた学校側ですが、こんな不便な所にまさか二十歳の女の子が来るとは思っておらず、私の履歴書を見た時大変驚いたと後になって聞かされました。
そして、私は6月の終わりに現地に入りました。
過去にK市に外国人が来たことは一度だけあるが、長期滞在するのは私が初めてとのこと。学校側は招待所という中国人専用の宿泊施設に私の部屋を作ってくれました。K市では珍しい洋式トイレとバスルームを部屋に設置してくれたのですが、私が到着した時はまだ工事中でした。「2週間で完成する」と言われていましたが、実際に施工が終わったのは2ヶ月半後です。
毎日のように停電があるのでロウソクは必需品。電化製品自体が珍しく洗濯機やテレビのある家庭のはごくわずかでした。この頃のK市はガスが通っておらず、ガスボンベすら見かけたことがありません。断水も頻発したので、髪を洗う時は突然の断水に備えて最初にお湯をたくさんバスタブに溜めておく必要がありました。
食事は自炊しました。食材は路上で野菜や肉を量り売りしていたので欲しい分だけ購入してきます。内陸部だったので海鮮類は手に入らず、野菜や肉類もいつも同じようなものしか売っていませんでした。
調理には、日本では自殺の道具として名を馳せている練炭(煤球méiqiúと呼んでいました)を使います。
練炭コンロは最初は火加減の調整が難しいのですが、慣れてしまえば米を炊くのも炒め物も簡単にできます。練炭なんて見たこともなかった私は、毎日がキャンプ気分で楽しく調理していました。
不便なことはたくさんありましたが、初めての体験ばかりだったので私は結構楽しんでいたと思います。
ちゃいな回想録②につづく
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