ねじまき鳥クロニクルを観てきました。結論から言うと、行ける可能性がある人は絶対行った方がいいです。観終わったあと、まず思ったことは「生活、もしくは、仕事に追われている人を救う演劇だな」ということです。劇中、なんども「よく考えることの大切さ」が語られるのですが、普段、生活に追われてしまって、考えられていないことに気づかされます。しかし、そのことに罪悪感を感じるというよりは、劇を観ているだけで、本当は考えないといけないことの周りを、考えたような気になるのです。それは、なんとなく劇に出てくる演者達が、私の分までたくさん代わりに考えてくれているように思えるからかもしれません。
この演劇は薬局の袋に入れて、効用の所に「多忙な人を救う」と書いても、宣伝に偽りないと思います。一方で、本当に多忙な人はなかなか舞台を観る時間を捻出することができないでしょうから、その点で私自身は、少し居心地の悪い気持ちになりました。本当はこの劇を観るべき人は私以外に沢山いるのにな、と。この「決して気軽に摂取できる形態ではない」ということは、演劇という形式の弱点でもあるけれど、その分、効用を高める強さにもなっているわけで。本当に必要な人のところに演劇を届ける方法について考え始めると、とても悩ましくなります。この上映3時間を通して、優しい気持ちになれた私は、せめて世界に対して穏やかに接することでこの罪悪感を拭っていきたいと思います。一瞬だけナツメグのようになって、誰かの傷を癒せたらいいなと。
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村上春樹の小説の『ねじまき鳥クロニクル』は、10年ほど前に読んだことがあります。本当は再読してから劇場に行こうと思っていたのですが、バタバタしていて、読む時間を作れませんでした。前日に、職場で『ねじまき鳥クロニクル』ってどんなやつだっけと聞いたところ、「井戸のやつ」と返ってきて、そこでようやく、「あぁ、自主的に井戸に入って、何日か過ごすシーンがあるやつか」と断片的に思い出しました。読んでいる最中は、文体の不思議さが面白くて、どんどんと読み進める。ところが、読み終わったあとは、ストーリーそのものをきちんと記憶することが難しくて、けれども、中に出てくる印象的なシーンが強烈に記憶に残る、それがふとした時にフラッシュバックするというような体験が、私にとっての村上春樹作品です。
今回の舞台は、演者が、<演じる、踊る、うたう>行為を通じて、進んでいきます。<演じる>と<うたう>という行為はもともと言葉に紐ついていますが、<踊る>行為も、言葉に紐ついている動きがとても多いと感じました。ジェスチャーゲームのように、何か特定のものを連想する動きが多かったからです。村上春樹は、なにかを表現する時、そのものずばりではなく、周りを割と多くの言葉で説明することが多いです。今回の舞台では、<セリフ、動き、音楽>がそれぞれ、何かしらの意味を持つ形で同時に現れるのでその多重性がすごく「村上」的だと感じました。
また、舞台セットがとてもシンプルで美しいです。奥行きが強調されるように、斜めの壁と斜めの底面(5度の傾斜)で作られた箱があります。そこに、場面設定をするための最低限のものを置いて場面が設定されます。リビングのシーンはダイニングテーブル、ホテルのラウンジはラウンジチェアなど。また、屋外のシーンも屋内のシーンも光の色を変化させ、壁の色を変えるだけで表現しています。そのシンプルで雄弁な様子が、平易な言葉で場面設定を作る村上春樹の小説と同じです。
前半の幕では、奥行きが強調された箱はほとんど動きません。しかし、光と影がとても効果的に使われています。これを観て、あぁ、言葉は概念なので大きさのリミットがないんだ。それを舞台にすると、急になにか大きさや画角のリミットが発生してしまう。その制約をこうやって乗り越えているんだと、気づかされました。この時、光と影は演者のセリフの効果をものすごく増幅させていたので、照明も言葉の一部であるように感じました。後半の幕では、箱が動いて、平面分割されていきます。2分割された時の場面を見た時、それがとても美しく、「このセットはこうもなるのだ」と感動したのが印象に残っています。そして、劇が終盤につれて、盛り上がるにつれ、どんどんとその分割されたセットが細かく、速く動くようになり、舞台セットの変化自体にリズムが生まれ、セットまでもが<踊り>始めているように感じました。
また、役者は常に動いているのですが、でも自然な動きというのはなく、常に決められた動きをしているので、止まっているようにも見えます。その印象が強いため、割と常に動いているにも関わらず、クリスマス・タブロー劇を観ているような印象がありました。コンテンポラリーダンスを取り入れた劇の観劇経験が多いわけではないので、言い切る自信はないですが、『メトロポリス』(シアターコクーン,2016)などと比較しても、「タブローのような印象」というのは、この劇の特徴の一つだといって良いと思います。というのは、パンフレットに、メッテ・ホルムさんというデンマーク語の翻訳者の方のインタビューが載っているのですが、そこに「Murakamiは言葉で絵を描く」というフレーズが書いてあります。あぁ、村上作品を読んだあとに、「中に出てくる印象的なシーンが強烈に記憶に残る」という体験は、こうやって表現したらいいのかと感銘しました。そして、そのことが一番、「村上的なもの」ということなのかなとも思いました。
そう考えると、総じて、この舞台は、「Murakamiは言葉で絵を描く」ということが、つまっていたなと思います。役者が、<演じる、踊る、うたう>行為を通じて<セリフ、動き、音楽>が言葉を表現し、照明までもが、その表現された言葉を増幅させる。また、パースを強調した箱(額縁があるのも関係しているかも)による平面構成的な舞台美術、役者の動きがタブロー的であることで、やっぱり印象としては絵画作品のように感じるのです。
この舞台を観ているとき、私は、ストーリーを追うでもなく、だれか1人の役者の顔を凝視するでもなく、代わり続ける絵画作品を観ながら、普段生活に追われて考えない、けれど考えた方がいいのだろうな思っている、「人生」というものや「善なるものと悪なるもの」について、ぼんやりと考えているような状態でした。それは、とても不思議な時間でした。普段観劇をしている時には、見せ場を観ると、「待ってました!」という感じで、脳内でドーパミンなのか、なにかの興奮物質がたくさん出るように感じます。でも今回はそいういう劇的な体験ではなく、脳内がなにかとてもリラックスした、解放されたように感じました。脳みそを取り出して、温泉に浸けて、丁寧にマッサージした、みたいな感じです。そうして、「生活、もしくは、仕事に追われている人を救う演劇だな」という感想を持ったわけです。こういう観劇経験は多くないので、頭の中を整理してみたくて、いろいろ書いてみたけれど、やはりよく分かりません。いますぐに、小説の方の『ねじまき鳥クロニクル』を読みたい気持ちもあるけれど、この舞台の不思議さの印象を上書きするのも、もったいないので、もう少し楽しんでから小説を読もうと思います。
この、何ともとりとめのない感想文をwebに載せるかは迷いましたが、誰か1人でも観るきっかけになれば、世界が平和になるなと思うので、ちょっと残しておこうかなと思います。あと、観た方で、いろいろ話せる方がいたらお気軽にコメントください。
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