衝撃のあまり一睡もできなかった。
わけではなくて、まるで電池が切れたみたいにぐっすりと寝た。それから、頭の真ん中あたりが全く働いている気がしない。どこかのスイッチが切れてしまったみたいで、TwitterもInstagramも頼まれ記事も書きかけていたALISの記事も何もかも、ほったらかしにして何もしていない。
パンを咥えてもぐもぐと口だけ動かしている。似たような人はきっと多いだろう。その似た人たちにしか理解できない、ジャーゴンだらけのポエムを僕は書く。いつまでもこんなロバみたいな間抜けた面じゃどうにもならない。
事態が重ければ重いほど、言葉は軽く見える。けれども、再びスイッチを入れて、活動を続けるために、上滑りしても書かなきゃならない。僕は生きているのだ。
これから僕は、僕らという言葉を勝手に使う。
これは支援や追悼ではなくて、僕ら自身をなぐさめ、満足させたいためのもの。自身を憐れみたいためのもの。支援や追悼のためには、もっと別のことがいい。
京都アニメーションは、僕らが過ごしたオタクムーブメントの、紛れもなく中心的な立役者だった。
僕らの周りにはたくさんの優れた作品、クリエイター、会社があって、そのいずれにも全力でのめりこんできたけれど、京アニは頭抜けて特別な存在だった。アニメはいつだってオタク文化の中心にあった。けれど京アニは、僕たちだけではなくて、たくさんの人々を引き込んで、ある時代の中心にアニメを持ってきた。
『フルメタル・パニック?ふもっふ』で京アニの名前と略称は知られるようになった。時折のフルモーションを活かしたコミカルな演出、「温泉回」の見事な手本となった第9話、スプラスティックパニックの傑作第12話。奇跡のような掌編群だ。まるで宝箱を開けたみたい。
何度繰り返し観たか知れない。どれだけ得意げに人に教えて回ったかわからない。僕らはつい昨日のことのように語ることができる。
「影響を受けた最良のものを映像化したい。伝えていきたい。」スタッフ達の宣言通り、次に『AIR』から始まる一群の美少女ゲームのアニメ化は、驚天動地のクオリティで僕らの心を鷲掴みにした。
既に古びていた原作絵にも関わらず、アニメの主題歌は「国歌」になり物語は「人生」となった。冗談ごとじゃなくて、これはアニメーションが現実世界に対してあげた凱歌だ。
ノートを携え聖地を訪ね、「彼女たち」の姿をこの世界に探して歩く。夏になれば海辺でゴールを叫び、冬にはたいやきを咥え、再び夏にひまわり畑を駆け巡る。あれはいったい何だったんだ、と思うほど滑稽な熱量を発しながら、世界のあちこちにマーキングをして回った。そんなふうに、ほんとうに多くの人達の「世界」を塗り替えていった。
次の波はライトノベルから、『涼宮ハルヒの憂鬱』で狂騒が始まった。文字通り踊った。歌った。描いてみた。動画をつくってみた。
呆れるほどに饒舌で、騒がしい季節だ。何をやったって人は集まり、カウンターは音を立てて回る。多くの人がこの時期に起きたことをあれこれと面白おかしく解説しているけれど、なんのことはない、僕らは真似事をしていただけだ。
「○○してみた」はSOS団の活動のなかにたくさんのお手本があった。世界は面白くなるだろう、続け、ハルヒ達のように踊れ、歌え、ゲームをしよう。涼宮ハルヒは、あとに動画サイトで起きたお祭り騒ぎのひとつの象徴になった。物語に描かれた通り、彼女が最初の、身近にいる「神」だった。
それから、『らき☆すた』や『けいおん!』で大波がネットを超え、一挙に世間へと広がっていくさまを僕らは見た。それはもう社会現象だと言われていた。意外なことにまだ新しい分野だった萌え4コマ漫画を原作にしてそれはやってきた。
京アニが紡ぎだす細やかで実在感のある世界。それはいよいよ画面を飛び出して、現実社会と共振していくようだった。感化された学生たちがバンドを組んで文化祭に出て、関連楽曲の多くがオリコンチャートを席巻した。全国の自治体はアニメによる町興しにいよいよ色めきだした。
まるでドミノをひっくり返すようにオタク文化のイメージは急速に向上して、教室やメディアの真ん中に躍り出た。僕らは誇らしげに背を伸ばし、道の真ん中を歩く。凱旋パレードだ。
これら、僕らオタク戦士たちにとって共通の体験はすでに、あるいはこれから大量に書かれていくのだろう。でも、何度繰り返し書いたっていい。
美少女ゲームから、ライトノベルから、きらら系萌え4コマ漫画から、ジャンルを移しては大きな波が呼び起こされて、僕たちの目の前の世界は、それまで全く想像もつかなかったものへと塗り替えられていった。
ある人々にとって、それはハーメルンの笛吹きのような出来事だったかもしれない。ここはコッペンの丘の果て。イヤな大人なんていないはず。
それから10年の歳月が過ぎ、やがて熱狂は過ぎて、ところどころから聞こえてくる町興しの失敗やクールジャパンの迷走やを僕らがせせら笑っているうちに、アニメは時代の主導権をゆるやかに失っていき、パレードはいつもの恒例の行事におさまっていった。
さまざまなコンテンツが競合し、刺激的で目新しく、そして現実に利益となるものが次々と登場する中で、僕たちもまた宇宙人や未来人や超能力者の仲間であることをやめ、ただの馬鹿か変態か創作者に戻って、TwitterやPixivやのフォロワー数の増減に一喜一憂するようになった。
長く続いた祝祭の空間が終わってしまうことに怯えながら、耳障りがよくてうすら嘘臭い声にすがりつく。ある人達は防衛隊を自認して反革命な分子を叩きのめすことに躍起になっていて、ひょっとしていま僕らは追い立てる側になりつつあるかもしれない。
いや、再び笛吹きが現れて、またどこかへ連れていってくれるのを、ずっと待っているのかもしれない。あの時僕らの前にいたのは、そんなのじゃなかったはずだけれど。
僕らの上に「老害」というフレーズが現実味を帯びてのしかかり、それでもいくらうんざりしたところで日は戻らない。
ところで京アニはそんなことはまるでお構いなしに『境界の彼方』以降、『聲の形』や『リズと青い鳥』『ヴァイオレット・エヴァガーデン』他の作品群で強烈に作品性の強度を高める方向へとさらにすすんでいくように見えた。
描かれる繊細さと実在感、そして空間の緊張度はさらにレベルを格段に上げ、これまでアニメで見たことがないような、感じたことのないような感情を引き起こしつつあるように見えた。これは、そこに実在の役者や風景がある以上の何かだ。
新しい出来事について、僕らはまだ十分に理解できず、ひょっとして困惑気味だった。それはこれから散々に語られ、いろいろな名づけがされるはずだった。一つだけわかっていたことは、京アニはどうやら近作を通じてほぼ同じメッセージを発し続けているらしい、ということだった。
それはこんなふうなメッセージ。咎に囚われてしまった男の子、女の子。青い鳥のように、軛を切って飛び出していける。いま過去と自身を見よ。赦し、決別せよ。
笛吹きの魔法なんて待つ必要はない。自分たちで歩いていけるはずだ。
こんなふうに、長い間、「京アニについて」僕たちは何度も繰り返し、飽きもせず語り合った。それは自分たちの来し方について語るのと同じことだったから。アニメーターにとってだけではなく、およそのオタクにとって、長い長い間、ほんとうに長い間、京アニとそこで活躍するクリエイター達は、海図をはかるポラリスに位置していた。
僕たちにとって、それは長い間、革命の前衛、司令部の明りだった。尊敬と、崇拝と、そして身勝手な思い入れと。
魔法が突然効力を失ったように、色に満ちた庭は枯れ野になって、豪奢だった伽藍はうす汚れた書き割りになった。頂門の一針とかいう言葉しか出てこない。
それから臆病な僕たちは親しい友人達の間でさえ、この事件のことをまともに話題にしていない。
うすら笑いしながら、話は回る。雨が続くこの頃の天気について、天気にちなんだ新作の映画が、まるで美少女ゲームのリバイバルであることについて、映画がリバイバルするサイバーな名作について、あのバイクは結局実現しなかったことについて。
けれども、あちこちに破片は散らばっているので、これ以上、避けて歩くことはできそうにない。
出来ることならニュースなんて見たくない、これ以上のことはもう知りたくなんてない。追悼なんてしたくないし、お別れなんてもっとごめんだ。犬のように吠え立てて、いろんなものに噛みついて、誰か粗相をして盛大に吊るし上げられてくれないかと目を皿のようにして嗅ぎまわる。
ぐずぐずと失くしたと思えるものをリスト化し、突然長いポエムを書き出し、いやお前らにわかるはずなんてないと黙り込む、書き直す、いやそんな大したことでもないかと笑い出し、再び何か言わなければと焦りだす、躁鬱的な時間を経て、ようやくここにたどり着く。
受容化のプロセスをたどって、ここにたどりつく。事件について、全く意味が分からない。まるで意味なんてわからない。いま、いくら考えたところでわからない。時代の変節だとか熱狂への報復だとか、7月は革命後のテルミドールなんだとか、そんな大袈裟なフレーズが、僕らの個々に、何かを与えてくれるわけがない。
ぐるぐると回る長いポエムを書き散らした末に、最後に、やっと発せられていたメッセージの意味にたどり着く。笛吹きなんて最初からいない。自分で歩けよ。
いま、散らばってしまったように見える破片を見ながら、やっとかき集めて回る作業に没頭する。僕らが知っていること、考えられることは、結局僕らについてのことだけだ。
長いポエムを書いた。書いていける気がする。オタクな活動を続けていける気がする。
僕は、明日から本気出す。笑わないで欲しい。