もう十年以上も前、若い時に中国の辺境を旅した話。
中国の辺境・雲南省を走る夜行バスの、ひどく狭い個人スペースで横になっていた。すぐとなりには中年の小汚いおっさんが眠りについている。日本人の感覚からすればとても快適とは言えない状況だが、すでに旅に出て一ヶ月を経た私はこのような環境になれきっていた。
ときおり検問があり、共産党員だか警察だかの人間が社内を確認する。叩き起こされて身分証明を差し出せと言われる。
日本のパスポートを差し出す。車掌がそれを外のえらそうな役人のところへ持ってゆく。役人は私のパスポートを見て驚いたように、こちらに目をやる。なぜこんな場所に日本人が? それでも特に問題なく検問を通過する。こういった検問が、中国が社会主義国であることを思い出させる。
そんなこんなで、バスは雲南省・元陽県・南沙鎮に到着する。ここまでくれば目的の元陽・新街鎮は目前だ。そこには今でこそ世界遺産として少しは名の知れた、見渡す限りの棚田が存在する。もう少しだ。
私はひとまず南沙で一泊するため宿を探す。ほどなく万民旅舎という古びた宿を見つける。10元〜20元で泊まれるとある。300円ほどだ。あくまでローカル用。まずもって旅人が訪れる場所ではない。
受付のおばちゃんは外国人が来たので驚いていた。ドミトリーもあったが、個室も20元程度だったのでそちらにする。
部屋で荷物をほどいていると、宿の女の子が三人、部屋に遊びに来た。新街鎮ならともかく、南沙に宿泊する外国人など物珍しいのだろう。お互い片言の英語で話すがなかなか通じない。しかし私は日本人だ。漢字でコミュニケーションを試みてみると、これが意外なほど通じる。お互いに意味がわかる。
少女たちのうち一人は淑(シュウ)と名乗った。淑小姐(シュウ・シャオジエ)。素朴な中にも凛とした佇まいがあって、とても美しい娘だった。
興味津々の彼女らとの筆談を、私は大いに楽しんだ。これが旅の醍醐味だ。私は彼女たちと打ち解け、仲良くなった。
翌日、私は南沙の町の銀行へ足を運んだ。もう人民元が尽きていたので、米ドルを交換しようとしたのだ。しかしそこで問題が発生した。その銀行では米ドルと人民元の交換は受け付けていないというのだ。
たしかに観光地でもないし、まず旅人が訪れるような町じゃない。田舎でもある。しかしまさか銀行で米ドルが交換できない、とは思いもしなかった。うかつだった。
どうにかしようと街中をうろついたが、いかんともしがたい。両替所なんて気が利いた場所は存在しない。人民元はほぼゼロに等しい。助けを請おうにも、中国は驚くほど英語が通じない。誰にどう助けを請えば良いのかわからない。
私は途方に暮れた。やれやれまいったな、と道端に座り込んでボーッとしていた。
そこに淑小姐がとおりかかった。ひらひらと手を振りながら通り過ぎようとする。私は必死で呼び止めた。そして筆談で、なんとか今の事態を説明した。
淑小姐は、まあひとまず落ち着けという様子で私をどこやらへ連れて行った。そこは屋台のような場所だった。そして囲炉裏のような器具で、豆腐のような小片を焼いて調味料につけて食べる。そんな場所だった。淑小姐は私に、食事をおごってくれたのだった。
その料理はいまいち何物かよくわからなかったが、しかし妙においしかった。そして彼女から奢ってもらっていることに、何故か居心地の悪さを感じた。
たぶん私が日本人で、一般的に日本人は中国の田舎の娘よりは遥かに金持ちだ。そんな意識があったのだと思う。そしてそんな私に淑小姐がごちそうをしてくれているということが、失礼な言い方をすれば意外だった。そしてそう感じている自分を恥じたのだ。
淑小姐が言うには、近くのxxx(名前を忘れた)という大きな街に行けば米ドルを交換できるかも知れないという。私は食事と情報のお礼を言い、さっそくその町へ向かった。そして南沙よりは少しは立派なその町の銀行で、なんとか人民元を手に入れることができたのだった。
南沙の万民旅舎に戻ると淑小姐は留守だった。俺は荷物をまとめ、近くの商店から菓子の包を買ってきて、漢字でつたない手紙をしたためた。
あなたのおかげで両替ができた。本当にありがとう。そんな内容だった。
バスに乗り込み山道を登ってゆくと、やがて新街鎮へ到着する。もう夕方となっていた。その日は宿を取り、早めに眠りについた。翌朝目覚めて、街の広場から眼下を見下ろしてみると、見事な雲海が広がっていた。際限なく広がる雲海の中で、新街鎮は一つの孤島にようにたゆたっていた。それは幻想的なまでに美しい光景だった。
元陽は棚田で有名な場所だ。アイキャッチの写真がその棚田だ(画像はウィキペディアより拝借)。その棚田も息を呑むほどに美しかった。いくつかInstagramからピックしてみる。
CGでもなんでもない。このような光景が、ただ眼前に広がっている。
風景に圧倒され、絶句する。そんな経験は人生で初めてだった。
数日間、棚田を満喫した私は雲南省の首都、昆明へ向かう前にもういちど南沙へ立ち寄った。淑小姐に会えるかもしれないという期待があった。しかし彼女は万民旅舎にいなかった。また留守にしているのだ。しかたないので私は南沙を発ち、旅の続きを始めることにした。
それから淑小姐には会っていない。もう二度と会うことも無いだろう。
それでも彼女の美しい顔立ちと、途方に暮れていた私を助けてくれた優しさは、元陽の棚田と、幻想的な雲海と共に、鮮やかな感傷として私の記憶にとどまり続けている。
折に触れて、私はそれを懐かしく思い出す。