【↑クロサワさん企画です!!】
男は、色彩のない森をひとり歩いていた。
足下は泥濘み、ブヨブヨとした不快な感触の黒い土で覆われている。
10メートルほどはあろうかという巨大で真っ黒な木々はうねり、重なり合うように伸びている。湿気の多い霧がかった空気に乗って漂ってくるのは、明らかに死臭を伴った、ひどく不快な臭いだ。どこまでが茂みで、どこまでが道かはわからないような道なき道を男は少しずつ進んでいた。
もう2時間ほどは歩いただろうか。
唯一の明かりというべき頭上の月光が森の中に差し込むところでは、男の真っ赤な甲冑と、その真っ黒な木々たちが蓄える、不気味なほど巨大な果実が照らされた。
色彩のない森の中でひときわ異様さを醸し出す、真っ赤な果実。
その人の大きさほどもある果実が、ぼとりと地面に落ち、爆ぜた。
「ちっ、またか・・・!」
果実が地面に炸裂すると同時に、血のように真っ赤で不快な臭いを伴う果汁が、辺り一面に散らばる。
「シャァアアアッ」
同時に、果実の中から、剣を携え、簡素な鎧を纏った骸骨の剣士が現れ、男を襲った。
「出でよ!イグニス!」
男が短い呪文を詠唱すると、オレンジ色に光り輝く獣が亜空間より飛び出した。
獣が即座に不死者に飛びかかり、喉笛―もうそこには骨しか残っていないが―に噛みつく。まもなくして、スケルトンは粉々になり、黒い地面と同化した。
「出直してこい」
この男の口癖も、もう何度目かはわからなかった。
この森に入ってからというもの、ゾンビやスケルトンといった不死者たちが次々に男を襲っているのだ。ある程度の困難は想定していた。しかし、手練れの赤文明召喚術師とはいえ、終わりのない不死者たちの猛攻は予想以上だったのだ。正直、男はかなり消耗していた。頼りにしていた掃射の暗号呪文も、大量のゾンビを引き連れた腐ったものたちの王―ロード・オブ・ロット―の前に、すでに使ってしまっていた。
いつ終わるとも分からない不気味な山道が徐々に屈強な男の精神を蝕んでゆく。
「もう少しだ・・・もう少しで、もう少しで『トゥアル・タミナス』の手がかりが・・・」
事前の情報によれば、この不気味な森の奥の神殿に『トゥアル・タミナス』に関する何らかの手がかりがあるらしかった。正直この男にも『トゥアル・タミナス』なる存在がなんであるかは分からなかったのだが、調査をするのは選ばれし者の宿命であった。
恐ろしき森が無限に続くと思えた最中、意外にも転機はすぐに訪れた。
それからしばらく歩いたところで、鬱蒼とした森が少し開けた場所があり、少し小高い丘となっていたのである。
そして、その丘を少し進むと、丘の頂付近に、漆黒の巨石で作られた神殿が姿を現した。
男は目的に達したことに歓喜した。
しかし、同時に、言葉で表現しようのない違和感が男を包んでいた。
空気が重い、いや、空間がゆがんでいるとでも表現すべきであろうか。
不気味な森に漂う霧がかった空気や、腐臭の不快さとは文字どおり次元が違うもので、時空がゆがんでいるように思えるのだ。
その原因がなんであるかに男はしばらく気づかなかった。
目の前に現れた荘厳な神殿に目を奪われ、そしてそれが『トゥアル・タミナス』に繋がるものであるという期待に、視野狭窄になっていたのだ。
しばらくその神殿の外観を調べていると、月明かりに照らされた丘全体が急に暗くなったように感じた。森を抜け、月光を妨げるものはなにもないはずだった。
不思議に思った男が、真夜中の空を見上げる。
するとそこに、「それ」がいた。
それは大きさにして10メートル以上あった。
漆黒の身体でありながら、真夜中の闇の中でもはっきりと見えた。
周りには瘴気が漂い、かろうじて人の形を取った身体についた、異様に細長い頭部から、無数の触手と黒いガスが吹き出ている。見れば、それの足下というべき場所で多数の巨大な触手が蠢いていた。
背筋を襲う強烈な悪寒が、赤文明の屈強な戦士として育ってきたその男に、生まれて初めての恐怖を感じさせる。
そしてあろうことか、「それ」は男に話しかけてきた。
いや、男に向かって話しかけてきたのではないだろう。
それに、話したという表現すら、正確ではない。
我々人間は口からことばを発し、耳からそれを聞き、理解するものだ。
そういう我々の常識の範疇で理解できないような、声のような何かが、直接脳内で轟音を立てるように響いたのだ。
にゃ~るにゃる~♪
このおぞましい「声」は、言葉としての意味を全く伴っていなかった。
脳裏に響いた狂気じみた声は、我々人間に宇宙的な恐怖を与えるものでありつつ、冒涜的で、そしてどこか上機嫌であるようにも感じられた。この場にあって異様に楽しげな雰囲気を伴っていることが、ますます尋常ではない恐怖をその男に与えていた。
「こ、こ、これが『トゥアル・タミナス』・・・?いや・・・」
男の直感は、それを直ちに否定した。
『トゥアル・タミナス』が大きな力を持っていることは明らかだったが、男が感じている膨大な邪悪さや狂気は、単なる大きな力とは全く異質であることはすぐにでもわかった。
男を恐怖に陥れたのは、それだけではなかった。
目の前にいる恐ろしきものが伝えてきたのとは別の「声」が突如響いたのだ。
よぐっ♪よぐっ♪
当然、その声も、なんらの意味内容を含むものではなかった。
脳裏に響く冒涜的な咆哮でありながら、甘美な嬌声のようにも聞こえた。
男が再度上方を見ると、男の見た邪悪なものは、1つではないことに気づいた。
最初に声を伝えてきた漆黒の怪物に、蛸のような触手が絡みついていた。
絡みついている触手は、緑色にもオレンジ色にも見えた。何色でもあり、何色でもないような異様な輝きを放つ無数の触手が、うぞうぞと漆黒の怪物の身体にまとわりつき、身体を撫で回している。
(あれは、なんだ・・・・)
男の背筋にさらに悪寒が走る。
(まさか・・・やつらは、じゃれ合っている・・・!?)
その吐き気をもよおすような大きな怪物の狂気の戯れを見ながら、男がそう思考した、そのときだった。
よぐっ!!!!!!
ひときわ大きな「声」が男の脳内で爆音を立てたかと思うと、丘の真っ黒な地面がボコボコと盛り上がり、丘の地面という地面からゾンビやスケルトンが出現した。道中で熱風兵が首を切り払ったままのスケルトンや、先ほど暗号呪文で焼け焦げたロード・オブ・ロットやゾンビたちも見える。
無数の不死者たちが再び永遠の生を得て、獲物である男のところに向かって歩を進めてくるのを見て、男はとうとう、正気を失った。
男はその場から森へ向かって一目散に逃げた。
言葉にならないわめき声を上げながら、赤い無骨な甲冑を装備した男が、色のない森を村に向かって引き返していた。
翌朝、男は森の中で発見された。
村に戻ってこないことを心配し、村人たちが巨漢の伝令たちをよこしたのだ。
伝令たちが男が道しるべとして残していった赤の魔石のかけらを伝っていくと、男は泥濘んだ黒い道の上に突っ伏して気を失っていた。
命に別状はなく救出されたが、目線は空をさまよい、正気を失っていたことは明らかだった。
村に戻っても男の様子は回復することはなく、何やらうわごとのようなものをつぶやき続けていた。
「さ、いきょうは、にゃ、にゃるさま・・・さい、きょうは・・・」
村人たちが心配そうに男を取り囲んでいると、村の外れの祠のほうから、ローブを被った司祭が姿を現した。
「だから、行ってはならないと言ったのに・・・」
赤い甲冑の男が森に踏み入る前、この司祭が、森の狂気について十分に警告をしていたのだ。自分の助言を素直に聞いていればこんなことにはならなかったのに、と言わんばかりのため息をつき、司祭は村の外れに向かってきびすを返した。
この司祭は、村人とは離れて暮らしている。
どんな生活をしているのか、どんな人物なのか、詳しく知る者はいない。
とぼとぼと村から離れていく司祭の口角が上がっていた。
村人たちから司祭の姿がもう見えなくなった頃、人の形を取っていた彼の身体はぐにゃりと歪み、みるみるうちに漆黒の怪物と同じ姿に変わっていった。