

昨日と今日、二日間のテレワークを行った。自分には向かないな、と思った。以上。
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結論が知りたい人は上記の二文で終わりです。僕にはテレワークは向かなかった。
僕は特別会社に行くことが好きな人間ではない。僕は朝起きるのが苦手な人間だ。大学生の頃は絶起を繰り返し、一限目はもちろん午後からの授業にさえ遅刻するような人間だった。むろん、単位は落としまくった。
僕にはテレワークは向かなかった。
理由は上記の通りだ。僕は朝起きるのが苦手で、規則正しい生活を送ることができない人間だからだ。すなわち、テレワークという一種の「自由さ」が僕のダメさを顕現させてしまった。会社でする場合に比べ、遥かに業務効率が落ちた。一日中眠たかった。スマホをいじる数が飛躍的に増加した。ふと見ると、そこには買ったばかりの「どうぶつの森」があった。どうぶつが僕を呼んでいるような気がした。「あつまれ」と言っていた。
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現在、状況的にテレワークをしなければならない人は多いと思う。コロナウィルスが終息し、これからの働き方を考えようというタームに入ったとき、テレワークについての議論はきっと避けられないだろう。
「僕は」テレワークが向かない人間だった。しかし、テレワークが向いている人も多くいるだろう。あるいは、テレワークの実施によって、会社に行く必要性が実はなかったことに気づいた人も多いと思う。思っている以上に仕事はどこでだってできる。すべてをリモートで行うのは難しくても、すべてを会社で行う必要もまたない。今回のことをきっかけに、そういうことに気が付けたことは良かった。
何事も多様であることが基本的に大切だ。出社が正しいか、テレワークが正しいか、ではない。どちらでもよい、という環境がベストである。そしてそれはあらゆることに言えると思う。たとえば残業が悪なのではない。残業を強いられる環境しか存在しないことが悪なのだ。定時で帰ることも、残業することも、時差出勤も、等しく認められていることが必要なのである。
多様性の問題は働き方にとどまらない。男女平等の問題も、ジェンダーの問題も、表現の問題も同じだ。
自分異なる考え方、自分が嫌いなものに対して、「理解はできないが、認める」という姿勢が増えていけば、世界はもっと平和になるように思う。
テレワークが向いていない話から世界平和の話になってしまった。
結論:テレワークの可能性とは、世界平和の可能性である。
最後まで読んでくれた方に、真の結論が届きますように。











