前回(1年前)に書いた文章の続きを書く。(詳細は#1を見てほしい)
①「斜に構える」にはそもそも相反する二つの意味があった。
②元来の意味の「斜に構える」を1.0、現在一般に使われる意味を2.0として整理。
③我々は来るべき「斜に構える」=3.0の可能性についての思考を試行する。
ここから、これから、3.0の可能性について模索してゆく。ゆるゆると。
斜に構える1.0とは「正対して構える」ことである。斜に構える2.0とは「正対せず構える」ことである。
上記は相反する態度であり、二項は対立の様相を呈する。3.0の可能性について、僕は前回「二項対立は横にズラすこと」と述べた。浅田彰の言葉だ。浅田彰は次のように言っていたことを前回確認している。
熱くなるのはとうに流行おくれ、かといって、すべてにシラケきったダンディズムを気取るのにも飽き果てたこの時代にあって、他にどんな選択がありうるだろうか。
浅田が言う「他にどんな選択がありうるだろうか」という言葉。その唯一の選択について、実は浅田彰はこう言っているのだ。
いまさらミコシをかつぐのもシンドイけど、二階の張出し窓で高見の見物ちゅうのもイヤミッたらしい、こうなったらミコシの後についてウロチョロするか、とは、一刀斎森毅の言である。この類まれなるスタイル感覚に注目されたい。「アホラシイからヤーメタ、といった短絡的傾向が増えてはいるが、<アホらしいけどヤッテミルンダ>というのは、きわめて人間的な、とくに青少年期の特性とさえ考えられる優秀な資質に属する」(『学校とテスト』朝日選書)。いささかもってまわった表現ではあるが、何のことはない、一刀斎は「あたなも一緒にウロチョロしませんか」と誘っているのだ。
アホラシイけどヤッテミルンダ、という態度。シラケているが、あえて熱くなる。この展開方法を「斜に構える」という言葉に当てはめるとどうなるか。
斜に構える1.0とは、「正対して構える」こと。斜に構える2.0とは、「正対せず構える」ことであった。この二項の対立を横にズラす唯一の選択、斜に構える3.0とは、「正対せずに構える態度でありながら、あえて正対する」と言うことができる。
では、「正対せずに構える態度でありながら、あえて正対する」とは何か。言葉としてはわかる気もするが、いまだ納得感はない。このままの言葉で掘り下げるのではなく、いったん別の言葉で考え表す道を模索する。
「ベタ」と「メタ」という言葉がある。
ベタとメタ。これらの言葉は比較的耳にしたことがあるのではないか。サブカルチャー界隈では「メタ発言」「メタ視点」といった言葉がなんとなく使われがちである。「ベタ」とは必要以上に具体的,写実的なことを意味する。砕けて言えば、「なんの変哲もない」「ありふれた」「そのままの」といった意味合いである。「メタ」というのは抽象化されたレベルを意味する。「高次な―」「超―」「―間の」「―を含んだ」「―の後ろの」等の意味の接頭語で、ある対象を記述したものがあり、さらにそれを対象として記述するもの。そんな感じである。
「ベタ」とはそのまま。「メタ」とはそのままではなく、ベタな次元の一個上の次元からモノ言うイメージである。「斜に構える1.0」が「ベタ」と意味的に重なるように感じるのは僕だけではないはずだ。では「メタ」はどうだろうか。
一度図式で整理しよう。
・斜に構える1.0=正対する=ベタ
・斜に構える2.0=正対せず斜めに構える=メタ
すなわち1.0=ベタな態度(視点)、2.0=メタな態度(視点)ととらえられる。
このように整理したとき、僕はふと次のようなイメージを想像した。「斜に構える2.0」における「斜め」とは「斜め上から見下ろす」というイメージである、と。「物事を俯瞰して捉える」といった意味に接近したように思う。
繰り返す。今現在使われている「斜に構える(2.0)」について、想像してほしい。「あいつは斜に構えたことばかり言っている」と言うとき、皮肉っぽさや、まっすぐの意味に捉えないような態度が想起される。では、この皮肉はどこからくるのか、あるいは、どうして皮肉「ぽさ」を感じるのか。自分はまっすぐに正対し、ベタな意味で問かているにもかかわらず、相手は自分に正対せず、メタ視点から「そもそもそういった問題について言えることとはね」「その行為自体が最初から無意味でしかなくてね」みたいなことを言うこと、すなわち言っている内容以前の、言う主体の態度に由来する。「斜に構える」とは文字通り「構え」の話である。それは「視点」と置き換えることができる。「斜めの視点」とは「メタ」の視点、「斜に構える2.0」とは「メタな視点」である。人はメタ視点からの物言いに対し、斜に構えている(2.0)、と感じるのだ。
では3.0とは何か。再び繰り返す。先に提示した図式で考える。
・斜に構える1.0=正対する=ベタ
・斜に構える2.0=正対せず斜めに構える=メタ
・斜に構える3.0=正対せずに構える態度でありながら、あえて正対する
=メタ的でありながら、あえてベタな態度をとる
メタ的でありながら、あえてベタな態度をとること。メタの視点とベタの視点を行き来すること。これが「斜に構える3.0」の態度=視点である。
人は子供のころ、誰もがベタに生きている。目の前の景色に一喜一憂し、他人と真正面からぶつかり合う。ゆえに喧嘩し、傷つけ、仲直りする。少しずつ成長し、大人に近づくにつれ、メタ視点を習得してゆく。青春とはベタに生きる、きっと最後の瞬間に違いない。メタの視点が己の中に芽生えつつあるのを感じながら、知らぬふりをし、目の前に全力になる。青春を終え、大人になり切れないモラトリアムを迎えた青年は、強いメタ衝動に襲われ飲み込まれる。そんな人は他人から「斜に構えている」と言われるのかもしれない。僕もそうした一人だったのかもしれない。あなたもまた同様である。
ベタは素敵だ。けれど、ベタなだけでは子供と変わらない。メタは必要なのだ。しかし、メタりすぎてはいけない。ベタとメタを行き来する態度、メタなのだが、あえてベタになる。そんな態度がモラトリアムを越えた先の成熟した大人の姿なのではないか。
* * *
話を逸らす。余談的に、意図的に。
一番の困難についての話だ。それは、目の前に広がる現実という名の光景から目を背けてしまうことだ。「斜に構える」そのものからの逃亡である。
逃げること自体が悪いのではない。逃げるべきときはある。他方で、逃げてはいけないときもあるかもしれない。本当は逃げたくないのに、逃げそうになるときもある。いろいろある。
僕はこれまで幾度となく逃げてきた。今も逃げている。他人から逃げ、現実から逃げた。あなたにも、きっとそのような経験がある。誰だって逃げるし、逃げたくなる。それでも逃げたくないと思ったこともある。
逃げようとして、けれど、逃げたく「ない」と思った時、僕らには「斜に構える」勇気が必要だ。僕らはまず、目を開き、構えなければならない。ベタにぶつかる度胸、メタに観察する賢さ、そしてベタとメタを行き来し物事を捉え続ける知性。
世界はその地点(視点)から生まれ、始まる。
なかなか「斜に構える(1.0だろうが2.0だろうが)」こと自体が難しいこともある、という話だ。
しかしここで再度、僕らは前回と同様の疑問に辿り着いていることを確認しなければならない。「ベタとメタの視点を行き来する」とは、では具体的にどのような態度(視点)なのだろうか。3.0を「メタりすぎてはいけない」といったところで、果たして理解は完了するのだろうか。答えは否である。
方向は二つある。ひとつは「ベタとメタの視点を行き来する」についていっそう思考すること。もう一つは「斜に構える」をさらに別の角度へズラすこと。次回はこのどちらか、あるいはどちらもを試みる。次回がいつになるかはわからない。
それでも、次回に続く。