千葉雅也の『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』の序では、次のような問いが提示されている。
分かれていること/つながることを共に肯定するーー切断と接続を、ヘーゲル的な弁証法(矛盾の総合)で処理しないというドゥルーズの立場は、いったいどういう立場なのか。
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ゴールデンウィークにロンドンへ旅行する予定だった。2月の初頭頃に、チケットはとっていた。僕はロンドンに行ったことが無かったから、その旅行をとても楽しみにしていた。学生時代は時間はあれど、お金がなかった。旅行先は国内が多かった。社会人になってから時間は減ったが、お金は増えた。時間についてはお金以上にやりくりをうまくすれば比較的容易に創出することができることがわかった。ロンドンの観光地を調べたり、サッカーのリヴァプールの試合日程を調べたりしていた。大学で西洋史を専攻していた僕は、大英博物館に行くことにも憧れていた。
3/19現在、世界を取り巻く現状が一変していることはいうまでもない。コロナウィルスの感染は拡大を続け、ヨーロッパは現在最もコロナが猛威を振るっている地域のひとつとなっている。程度の差こそあれ、各国は事実上の国境封鎖政策を展開している。コロナショックによる世界への打撃は多方面に渡り、事態は極めて深刻である。と、メディアの情報を読む限りで僕は理解している。間違っているかもしれない。
コロナが実際にどれほど危険なのかどうか。ど文系の僕にはわかるわけない。メディアの情報を取捨選択し、あとは信じるしかない。僕が考えていることはどちらかというと、感染症によって危機に陥るこの世界についてだ。
僕が楽しみにしていたロンドンへ行けないことは、今この瞬間のこの世界の、ひとつの限界を示しているのかもしれない。どういうことか。
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ベネディクト・アンダーソンはかつて国家のことを「想像の共同体」と読んだ。国民国家なるものは自明のものではなく、比較的新しい、人工的につくられた想像の産物にすぎない。あるいはそもそも国家なるものが、存在しない線によって区切られたひとつの幻想にすぎない。20世紀、世界各国は次々に欧米列強からの独立を果たし、一民族一国家というありもしない夢を抱き、そしてその限界を知った。僕らは旧ユーゴスラビアについて想像する。あるいは、難民問題について。もしくは、我が国について。どれだけ線で区切ったところで、そこには常に多(他)民族が存在する。
21世紀、国民国家(ナショナリズム)の限界から、グローバリズムの時代へと移り変わってゆく。それは主に経済の発達とインターネットの発達の影響からでもある。僕らはたとえ異なる民族であろうと、同じiPhoneを使い、メールを飛ばし合い、ユーチューブで動画を見る。僕らの世界はかつてないほど世界という単位で一纏まりとなっている。
ハンス・ロスリング他著の『ファクトフルネス』では、世界の格差は縮まり、確実に豊かになっている事実を提示している。それはグローバリズムの最大の成果だと言っていい。世界はますますグローバリズムを進めてゆくのだと思われた矢先、アメリカで一人の大統領が誕生した。ドナルド・トランプだ。他方で、イギリスがEUを離脱した。ブレグジットである。
世界の「良識があるとされる人々」はトランプを批判し、ブレグジットを非難した。それはきっと、単に右左の政治思想ではなく、グローバリズムの否定への戸惑いにあったのではないか。世界は再び国民国家回帰の流れを醸し出し始めた。そういう風に見ることができた。
けれど、このような整理はきっと、正確ではないだろう。ナショナリズムがきて、グローバリズムがきて、またナショナリズムがくる。世界はそこまで単線的な経路をたどっているわけではないことを、ふと思い出す。東浩紀は『観光客の哲学』の中でナショナリズムとグローバリズムを二項対立としてではなく、二層構造としてとらえた。
現代はけっしてナショナリズムの時代ではない。かといって単純にグローバリズムの時代でもない。現代では、ナショナリズムとグローバリズムというふたつの秩序原理は、むしろ、政治と経済のふたつの領域にそれぞれ割り当てられて重なり共存している。ぼくはそれを、二層構造の時代と名付けたいと思う
一方でますますつながり境界を消しつつあるのに、他方でますます離れ境界を再構築しようとしているように見える。ぼくたちが生きているのは、カントが夢見た国家連合の時代(ナショナリズムの時代)でもなければ、SF作家やIT起業家が夢見る世界国家の時代(グローバリズムの時代)でもなく、そのふたつの理想の分裂で特徴づけられる時代である
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かつて難民受け入れを声高に叫んでいた人がコロナの脅威に震え国境封鎖止む無しと平然と答える様子を想像する。それは間違いではないのかもしれない。誰だって結局は自分が大切だし、脅威が迫れば自分を守ろうとする。結局人は危機に陥れば皆保守的になる。メキシコの壁だってアメリカ人からしたら「危機への対策」だし、難民受け入れ拒否だって、テロリストの入国を防ぐという立派な「危機への対策」だ。あらゆる戦争が「自衛」であるように。コロナウィルスという未知のウィルスによって、ある種の偽善がすべて明るみに出たような印象を受けた。そんな風に見えてしまった。
グローバリズムは決して褒められたシステムではない。世界が単一的になるということはあらゆる差異や特殊が消えてゆくということである。言語や文化、すなわち民族そのものの消失を意味する。世界の言語は英語と中国語だけになるかもしれない。だからグローバリズムを単純に全面的に肯定してはいけない。動きすぎてはいけない。それでも、『ファクトフルネス』で述べられる通り、世界の格差が縮まっている事実は、端的に人間社会の進歩を意味する。
今やグローバリズムこそ幻想となった。グローバリズムなどというものは存在しない。パズルのピースを組み合わせただけで、そこには確かな線が存在する。一度危機を迎えれば、普段見えない線は可視化される。それが今である。そして一度可視化された線は短くない時間、僕らの目に焼き付き残ることだろう。
一方にナショナリズムという幻想があり、他方にグローバリズムという幻想がある。僕らはきっと、どちらの幻想も捨てることができない。二層構造となった双方を行き来し続ける。ふたつの幻想=フィクションを信じ続ける。コロナの危機に各国は国境を封鎖した。けれどいつまでも封鎖していれば、観光業を中心とした経済の打撃は計り知れない。これがグローバリズムの蜜である。ナショナリズムだけで突き進むには、僕らはグローバリズムの甘い蜜の味を知りすぎてしまっている。
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結論も何もない。書き始められたこの文章は、結局ただの雑記である。中途半端なまま終わりへと収束する。
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ボーナスは旅行代に使おうと考えていたが、そうならなくなった。欲しいものは色々あるが、絶対に欲しいものとなると限られてくる。大人しく貯金するのがいいかもしれない。またいつか旅行するときのために残しておくのが賢い選択のようにも思われる。
1カ月後の世界を想像しようと試みるが、うまくいかない。世界は僕らの想像のレベルを遥かに超えて変化してゆくし、何よりその変化のスピードは到底ついていけそうにない。ゴールデンウィークが実際にどうなっているかわからない。だからこそ、今この瞬間について文章に残しておくのはちょっと面白いと思った。
結論:東京オリンピック、絶対失敗するよう誰かに呪われてる説。