〈コガネ〉/静謐/往来ヲ歩ク/夜
横行スル/跳梁スル/匍匐スル/密カニ
〈コガネ〉/荒野/自在ニ這ウ/夕
揺曳スル/伸展スル/浸潤スル/微カニ
人ノ上ニ降リ掛カル/災
躰ノ内ニ巣ヲ懸ケル/病
牛小屋
羊小屋
国衙
聖殿
皆〈空〉ニナッタ/皆〈無〉ニナッタ
女ノ哀歌
童ノ悲唄
八百万ノ神ダチハ/見捨テ給ウ
〈欠落、真空状態、無意味、空白〉は収束して崩壊に至るのか、あるいは拡散蔓延希釈されていくのか。〈無〉が自分の引力によって圧縮され高密度化していく過程など考えられない。案の定、〈コガネ〉は後者の現象を現出した。人の輪郭を備えていたが人ではなかった。地面の傾斜と微かな気圧の差に逆らうことなく、〈コガネ〉は荒野を徘徊した。水や風にも似ていた。螻蛄が〈コガネ〉に飲まれた。〈コガネ〉は螻蛄一匹分の体積を得たが、相変わらず〈無〉のままだったので、より空洞が広がっただけだった。蜈蚣を飲んだ。廬塢靈塢中南部、未開拓の無名の砂礫地帯に〈コガネ〉の光沢が充満した。その有様は、
甲虫ノ背中
浜辺ニ波打ツ一樽ノ獣脂
病人ノ白目
赤紫ニ熟レタ郁子ノ種子
絶えず身を捩って明度を変えた。隊商がやって来た。帯帽筒衣の商人が一人、力奴が七人、力奴はそれぞれ七頭の荷象を引き、荷象は七包の香辛料を乗せ、螟蛾の幼虫が一包につき七百匹いた。〈コガネ〉はただそこに淀んでいた。一人の力奴が〈コガネ〉を見付け、舐めてみた。未知の物はまず味から認識しようとする意地汚い男だった。彼は〈コガネ〉の一部になった。彼を助けようとした力奴たちも順にそうなっていった。〈螟蛾ノ幼虫〉まで一匹残らず飲み込んだ。商人は逃げようとしたが、躓いた拍子に頭を打ち、昏倒していた。風が吹いた。〈コガネ〉は煽られて、風下の不運な商人を飲みながら小高い丘を越えた。帝都までゆるい下り勾配が続いている。〈蝸牛ノ散策〉の愚図愚図した速度で流れ落ちた。
帝都捌鶩而は壊滅した。〈無〉に抵抗する手段などある筈がない。〈膨張スル《無》〉は被造物の脆弱な理性には理解不能な現象だった。〈コガネ〉は未明に訪れたので、静かに眠ったまま人々は〈無〉に包まれた。山手に住む官吏や有産階級の者は朝になって異変を知る。不分明な流体が帝都を覆っていた。〈ドロドロノ茶漬ケダ。俺ハ茶漬ケノ御菜ニナッタ〉と喚き散らすのは国璽尚書儒弩だった。九十の声を聞くこの頃、記憶力の低下が著しかった。彼の家族は奇声に叩き起こされ、〈ツイニ〉と思った。彼の糟糠の妻式瑜が北叟笑みながら恩給の計算にかかる。だが、私は〈尺稼ギ〉の筆法が染み付いてしまっている。もはや紙面がない。要するに、逃げた者は助かり、逃げなかった者は消滅した。帝都捌鶩而の人口は四百分の一になった。〈コガネ〉が最初に襲った都市だった。〈コガネ〉への対策は、計画され機能する前に芽を摘み取られた。廬塢靈塢全土で混乱紛擾が巻き起こった。
あらゆる意味で〈連絡〉は遮断された。情報、物資、人材の移動は永遠にその途を絶たれた。人々は高地にしがみついて露命を繋いでいる。廬塢靈塢は〈結バレナイ点ノ集合〉になった。旧帝都も〈点〉ではあったが、しかし比較的大きな〈点〉だった。帝と妃と鹿魚の行方が分からない。山手の夏離宮猪畫弗園に皆が難を逃れていたところから、新たに〈猪畫王朝〉を開くことを高位顕職にあった者たちは建案した。武官文官の生存者でそれぞれ最高位にある、都護尉飯九と司空丞与阿が開祖たる〈大帝〉に名乗りを上げ、自然と彼らを核とする二派に別れた。僅々表面積六抱畝ばかりの小山で二百五十八人の上に君臨する餓鬼大将を決める争いが勃発した。このような目先の小競り合いがあるとき、人は妙に生き生きしている。彼らの心中は悲壮ではなかった。