鹿魚姫(25)

〈動物ノ群ニセヨ、人ノ群ニセヨ、アル数ノ生物ガ集合サセラレルヤ否ヤ、ソレラハ本能的ニ首領、即チ指導者ノ権力ニ服従スル。人ノ組織スル群衆ノ場合ニアッテハ、指導者ハ重要ナ役割ヲ演ズル。指導者ノ意志ガ中軸トナッテソノ周囲ニ数々ノ意見ガ作ラレ統一サレルノデアル。群衆ハ統率者ナシニハスマサレヌ輩ノ集マリデアル。指導者ハ多クノ場合、思想家デハナク実行家デアリ、余リ明晰ナ頭脳ヲ具エテハイナイシ、マタソレヲ具エルコトハ出来ナイデアロウ。何故ナラバ、明晰ナ頭脳ハ概シテ人ヲ懐疑ト非行動ヘ導クカラデアル。指導者ハ特ニ狂気トスレスレノトコロニイル興奮シタ人ヤ、半狂人ノナカカラ輩出スル。彼等ノ擁護スル思想ヤソノ追求スル目的ガドンナニ不条理デアロウトモ、ソノ確信ニ対シテハドンナ議論ノ鋭鋒モ挫ケテシマウ。軽蔑モ迫害モ、カエッテ指導者ヲ一層奮起サセルダケデアル。一身ノ利益モ家庭モ、一切ガ犠牲ニサレテイル。指導者ニアッテハ保存本能スラ消エ失セテ、遂ニハ殉教トイウコトガシバシバ彼等ノ求メル唯一ノ報酬トナルノダ。強烈ナ信仰ガ大キナ暗示力ヲ彼等ノ言葉ニ与エル。常ニ大衆ハ強固ナ意志ヲ具エタ人ノ言葉ニ傾聴スルモノデアル。群衆中ノ個人ハ全ク意志ヲ失ッテ、ソレヲ具エテイル者ノホウヘ本能的ニ向カウノデアル。〉
〈指導者タチハ主トシテ次ノ三ツノ手段ニ頼ル。断言ト反復ト感染デアル。コレラノ作用ハカナリ緩慢デハアルガソノ効果ニハ永続性ガアル。オヨソ推理ヤ論証ヲ免レタ無条件的ナ断言コソ、群衆ノ精神ニアル思想ヲ染ミ込マセル確実ナ手段トナル。断言ハ証拠ヤ論証ヲ伴ワナイ簡潔ナモノデアレバアル程マスマス威力ヲ持ツ。アラユル時代ノ×××ニセヨ××ニセヨ常ニ単純ナ断言ノ方法ヲ用イタノデアル（伏字ハソレゾレ〈宗教書〉〈法典〉）。コノ断言ハ絶エズ、シカモ出来ルダケ同ジ言葉デ繰リ返サレナケレバ実際ノ影響力ヲ持テナイ。《真実ノ修辞形式ハタダ一ツ反復アルノミ》。断言サレタ事柄ハ反復ニヨッテ人々ノ頭ノナカニ固定シテ、遂ニハアタカモ認証済ミノ真理ノヨウニ承認サレルニ至ル。アル断言ガ十分ニ反復サレテソノ反復ニヨッテ全体ノ意見ガ一致シタトキニハ、所謂意見ノ趨勢ナルモノガ形作ラレテ強力ナ感染作用ガソノ間ニ働クノデアル。厩ニイル一頭ノ馬ノ悪癖ハ同ジ厩ノ他ノ馬ニヨッテ直チニ模倣サレル。〉
　修武寮の副読本として配布された愛提秀大学寮観箇老師（堪輿倫理学）〈群衆〉を彼は思い出していた。伏字や記憶の曖昧な部分は私が参照して補った。現在、酒宴から流れてくる叫声が〈断言〉〈反復〉〈感染〉の原理を裏付けている。曰く〈勝利〉、〈粛清〉、〈更ナルウマイ酒〉、〈皆殺シ〉と。本当にこの戦いの〈指導者〉が偉大な半狂人であればよかった。右派立憲専制派政治結社礼裙社の無礼に〈激昂シタ〉例侶要塞司馬将連藍俯がその位置にある。確かに、出陣式の訓示では〈狂気トスレスレノトコロニイル興奮〉を見せ、〈異端ヲ根絶ヤシニセヨ〉、〈二度ト聖地ニ転生サセルナ〉、〈殺セ〉などと強い言葉で〈断言〉〈反復〉し、それはかなりの〈感染〉を実現した。しかし、例侶要塞司馬将連藍俯は腰が引けてしまった。仕出かしたことが怖くなったのだ。〈ヤリ過ギデハナイカ〉と常に敵性住民の被害を憂慮するが、その度に下僚将官が過去の彼の発言を引き合いに出す。〈《根絶ヤシ》ガ閣下ノ御命令デシタガ〉。彼は英雄にはなれない。小粒な常識人だった。彼がいにしえの〈八族共和〉でも持ち出し、その偉大な幻に酔い痴れ、強靭な精神で行為実践を一貫させるならば、あるいは。〈アルイハ〉実際には〈根絶ヤシ〉を行いつつも、それが禁軍の仮想的当為である恒久平和〈八族共和〉に導く唯一の道だという形而上の離れ業的牽強付会、曲芸的飛躍が可能だったかもしれない。目的は壮大であり、手段は剛直であり、羽林将郎經津區の望む〈男性美〉に一致した。戦記軍記になり得た。だが、なにもかもが卑しい。酒宴から流れて来る声の調子が変わった。
　殺セ
　奪エ
　犯セ
〈断言〉〈反復〉〈感染〉が完成した。兵卒の行動原理を示すこれ以上明確で単純な標語は存在しない。〈人ハココマデ愚カニナルノカ〉と嘆息した羽林将郎經津區は〈群衆〉の一節〈明晰ナ頭脳ハ概シテ人ヲ懐疑ト非行動ヘ導ク〉を思い合わせた。不覚にも、隠微な満足感を味わった。骨絡みの〈劣等感〉に〈玉砂利ニ烏賊墨〉と染み渡った。
　羽林将郎經津區は総角酒を飲み干した。眠れなかった。〈明日ハ〉と思った。彼の予定は鹿魚の匙加減次第だった。それが不本意だとは思わない。彼は鹿魚が好きだった。やはり話してみるべきだった。彼は苦悩に飽きていた。茫漠たる生殺しの絶望を締め括るにはどうすればいいのか、酒精で馬鹿になった〈明晰ナ頭脳〉で考えた。〈明晰ナ頭脳ハ概シテ人ヲ懐疑ト非行動ヘ導ク〉と一般的な〈類型〉に纏められたのが癪だった。この〈類型〉を超越する為に、自身の〈明晰ナ頭脳〉を大前提としながら、〈個性〉獲得を目途に狂信と行動を追求するだろう。それもまた〈劣等感〉型〈明晰〉型の〈類型〉的な反応に過ぎないと、この時点では彼は知らない。そうでなければ、彼は初心を思い出して芸術家となるしかない。孤独のままたった一人で〈大キナ一〉を作り上げ、その〈大キナ一〉に同化して〈小宇宙〉を創造する。彼はまだこちらの道に気付いていない。やがて眠った。微かに兆した尿意を我慢しながら。