聖娼之蒋七は弖飛に会いに来た目的を忘れていた。部落の連中はしつこく覚えていた。〈責任〉を果たし得なかったという事実は、実に簡単に彼女の積極的な悪意の措定へと転換していった。若い女婢の左目が奪われる事件が多発した。聖娼之蒋七が弖飛に命じているのだと誰もが思い込んだ。まんざら濡れ衣でもなかった。聖娼之蒋七は悪神になった。退治する必要があった。〈皮革組合呵瀰樓社ノ臨時寄座〉が五度開かれた。誰かが嫌になって〈責任〉を取ると名乗り出るまで、いつまでも会合を続けるつもりだった。なんの方策も立てられないと分かっていても、鳩首の間はそこに存在する人数で〈責任〉を分割出来るので、気が楽だった。やがて〈責任〉者が現れた。〈臨時寄座〉に音を上げた者のなかからではなかった。繭鳩業を営む知臾は〈出来星成金変節野郎〉と地元大衆紙〈辛夷〉の大見出しで罵倒され、しかも読者がそれを当然の報いと思う程度には資産を有し嫉妬される実業家だった。実際、人格的に立派とは言えず、なんの脈絡もなく人を破滅させる。〈気紛レニ馬鹿ニ金ヲクレテヤルノガ趣味ダ〉などと嘯き、純朴で知恵の足りない者に無闇矢鱈と多額の投資をする。確実に足を踏み外すのが面白くて堪らぬらしい。嗣子以藐はこの親父が嫌いだった。知臾はじきに千戸卿の爵を買い、中央の燐寸製造業者未亡人とこの嗣子以藐を結婚させるつもりだ。一夜、殺し合い寸前の殴り合いを演じ、腹立ち紛れに嗣子以藐は厩婢を犯した。評判の醜女だった。痘痕で赤茶色に腫れ上がった石灯篭である。自暴自棄になっていた。みずから厩婢礼寧との関係を公言して、〈結婚スル〉とまで宣言した。友人たちの前で厩婢礼寧の乳房を捏ね上げ、口唇を舐めた。やがて父親知臾への怒りが過ぎ去る。おのれの軽率さを後悔し、しみじみ嫌気が差した。もう後には退けなかった。強引に事態を収拾出来るとすれば父親知臾しかいないが、〈出来星成金変節野郎〉は自分に逆らった嗣子以藐が苦しむことに喜びを感じていた。厩婢礼寧は厩で生まれた。死ぬのも厩だろう。母親も厩婢だった。母厩婢逗己は美しかった。秣の滓、砂埃、糞に塗れてもさっと指先で一刷けするだけでよかった。その雪白の肌は輝きを取り戻す。父親はいなかった。知臾邸に証文を盗みに入った男が警備に怖気付き、そのまま帰るのも業腹なので置土産に逗己を〈犯シタ〉。労働者向大衆報彙〈桜花〉で〈別嬪奴婢番付〉の四等に入選し、〈頸ハ棒砂糖菓子。口唇ハ薔薇飴。目ニモ美味〉との論評と扇情的な似顔絵で評判を取っていた為、寧ろ厩婢逗己の〈美味〉を試みるほうが主目的ではなかったかとも疑われた。厩婢逗己は産褥で死に、醜い子供を残した。厩の裏は厨と厠の汚水を始末する沼で、板戸の隙間から四六時中瘴気が入り込み、迷い込んだ野良猫が悶絶して死ぬ。〈馬ノ吐ク息吹ヲ蓄積シ腐ッタ瓦斯ガ血中ニ濃縮セラレ顔面ノ形成ヲ阻害シタ〉と地元大手大衆紙〈瑠璃〉は母娘が似ても似つかぬ容姿であることに対する呪術的理屈を丁稚上げた。父親の遺伝的資質に関して触れている記事が不思議と存在しない。遠慮なく罵詈雑言の的に出来る盗人であるにも関わらず、犯人は結局挙がらなかったにせよ、架空の藁人形さえ設定しなかった。繭鳩商知臾が厩婢逗己に〈試ミ〉たのだろう。もしそうなら嗣子以藐は腹違いの妹と近親相姦したことになる。
嗣子以藐の許婚者厩婢礼寧が悪神に眼球を取られた。二年前、厩婢礼寧は馬の踵に出来た腫物を切開した際、噴出した膿血を浴びて右目は殆ど失明していた。左目を失ったのは大きかった。厩婢として〈使イ物ニナラヌ〉から殺してしまうよう繭鳩商知臾は嗣子以藐に言った。なにも考えずに従っておけばよかったかもしれない。茶屋〈五徳〉で友人たちは棗酒の盃を傾けながら以藐を揶揄った。〈恋人ノ復讐ヲシロ〉、〈ソレデモ男カ〉、〈目玉ヲ取リ返セ〉。以藐は愚かな男だったので、矜持は安い。実に地方豪商の銅鑼息子らしい。斯くして以藐は〈水場〉に赴いた。
痩セユク腕ヲ/庇イツツ
荒レ野ヲヒトリ/タダヒトリ
陽炎燃エル/目路ノ果テ
逸ル心ヲ/抑エカネ
淡イ憧レ/春ノ夢
ヤガテ朽チクユク/砂ノ上
微笑ミ凍ル/口ノ端ニ
ソット降リタツ/黒イ蝶
聖娼之蒋七が歌っていた。聴き終えるまで待っていることにした。以藐は詰め寄った。「悪神め」紫薇の新芽を摘んでいる聖娼之蒋七を、打ち捨てられた番小屋まで跡を付けて来たのだ。弖飛との住処だった。聖娼之蒋七、「悪神って、妾が」以藐、「そうだ」「里の人か」「悪神に既婚者の目を抉られた」「弖飛だ。悪かったな。妾の為だと思ってやってるんだ」前髪を掻き上げて、左目を示した。以藐、「目玉を返せ」聖娼之蒋七、「どんな目だ」「そうだな。おまえの目玉に似ている。とにかく黒い」「あれかな。弖飛が踏み潰した」見れば見るほど、確かに〈似テイ〉た。あの醜い女婢が何故眼前の可憐な少女と重なるのか。以藐は一目見たときから劣情を覚えていた。以藐、「ならば、おまえの目を代わりに寄越せ」以藐は思った。厩婢礼寧は醜い。心まで捻くれている。あの夜、〈腹立チ紛レニ〉〈犯シタ〉夜、御愛想で〈愛シテイル〉と言ってやった。もう頭は冷えていたから、顔から目を背けつつ。厩婢礼寧は〈ドウセ体ダケデショウ〉と返した。気が遠くなる程むかついた。自身の顔貌が〈ソコソコ〉であるのを大前提として、同時に〈体〉は〈ナカナカ〉だと自己評価している口振りで、〈以藐ハ妾ノ好ミデハナイガ《ドウシテモ》ト言ウナラ《体》ダケハ許シテヤル。ダガ心ハ妾ノ自由ダ〉と以藐を遥か上空から見下している。〈吐瀉物ガ恥垢菌ノ皮ヲ被ッテ虚仮威〉の如き面相に軽視されたという事実は以藐にとって衝撃だった。自堕落な半生を猛省し、生まれ変わる最後の機会だったかもしれない。醜い形態には美しい内容が伴うというのは〈迷信〉だと悟った。〈以藐ハ思ッタ〉。〈コノ女ノ目ハ神ノ冷淡ナ心ヲ映シ、女婢ノ目ハ外界デナニモ見ナカッタカラナニモ映シテイナイ。《無色透明ノ黒》。〉正解に近い。以藐は聖娼之蒋七を殺した。散開発射型芙式半絞口径銃で頭部を消滅させた。悪神を退治した証拠にと、以藐は聖娼之蒋七の髪を集め、結んで玉にした。部落への帰るさ、おのれの弱い心をじっと見詰めていた。なにもかも下らない。それは知っているつもりだったが、認めてはいなかったようだ。無頼に似て甘ったれだった。気の合わない馬鹿な友人たちの顔など二度と見たくなかった。〈退屈〉〈倦怠〉〈憂鬱〉が生の本質だと掴みかけている。もっと切なく、やるせなくなるべきだ。必要なのは郷愁だと直感した。あの暗い生家を離れれば、少しは賢くなれる気がする。焦燥で頭を耕し、孤独が心を磨く。