「最近いい本は読んだかね。最近の一番はなに。なに読んだ」
「さあ。ええと、忘れた」
「どんなの」
「どんな。ううん、友達にすすめられたけど、覚えてないです」
「なんにも」
「はあ、題名も、作者も」
「いつ」
「そうですね、分からないくらい。それくらいの、最近」
「ふうん」
「ああ。営業か」
「ひまなんだろう」
「そんなにやることはないです」
「長いのを読んだらどうかね」
「たとえば」
「いろいろあるよ。うちに来て選んでいいよ」
「そんなに熱心に営業しなくても、行くって言ってるのに。行きます。本、読みたいから。いま」
「そうか」
「もうかってないんでしょう」
「もうけるったって、知れてるじゃないか。どうやってそんなにかせげばいいの。ねえ」
「おれに聞かれても」
「きみは少しは見込みがあるんだけど」
「なんの」
「なんだか」
「最近の人たちは、活字ばなれがひどいそうですけど」
「じっとしてると暑い。くそ」
「あれ、もう、人がいない」
「いないか。そうか。しずかだね」
「どうしたんですかね」
「さあねえ」
「さすがにめいわくだって、解散させられたかな」
「いいんだ。今日くらい。もう昨日か。そろそろ夜が明けるのかな。桜が終わるんだもの。正月みたいなもんだ。いつだって、おれはかなしい。たぶん毎年」
「あぶないですよ、ねえ、ちょっと」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。まだまだしっかりしたもんだ。川は浅いから、落ちたってたいしたことはない」
「浅いからあぶないこともあります。足を折ったりして」
「花びらは散っているか」
「ええ」
「なにが見える」
「桜が、散ってます」
「なにが見える」
「川」
「うん」
「月は、もうないですね」
「すごいね。桜のじゅうたんみたいじゃない。ずいぶん散ったね」
「もう終わりだから」
「それにしても、散る先から咲いているのだろうか。見上げれば、ぜんぜん、こっちも一面桜だ。どこから散ったの。不思議だね」
「やめてください」
「だいじょうぶなんだ。おれは、こうなってからなんだよ。ほら、しっかりしたもんだ」
「あぶない。ちゃんと、いいから、そんなことしないで」
「そら、どうだ」
「分かりましたから、下りてきてください。川に落ちたりしたら本当に助けられないんで」
「家がいっぱいだよ」
「はいはい」
「みんな帰ったのか。あいつ、どうした。マスターは」
「寝てるんじゃないですか。どこかで。それか、場所をかえて、まださわいでいるのかもしれない」
「どうってことはないよ」
「はあ」
「ははは、桜が咲いている。こうしてみると、いろんなところで桜だらけだ。日本の春はすごいねえ」
「桜の森の満開の下」
「なに」
「なんでもないです」
「いい天気だ。雲ひとつないね」
「そうですか」
「星は、ああ、見えないね。もう見えないね。ちょうど夜と朝とのあいだが、いまかもしれないね。まっくらの、まっくら、うう、なんて言うんだろうね」
「さあ」
「空缶が流れてくる。見える」
「見えないです」
「花見客のごみだ」
「もういいでしょう」
「心配しないでいいよ」
「なにしてるんです」
「いま下りるよ」
「あっ。また」
「いいだろ」
「まずいって。あ、もう、こんな太いところ折っちゃって」
「いいんだ。もうおしまいだから」
「なんで持ってくるんです」
「置いといても、しょうがないだろう」
「店のなかにかざってもだめでしょう」
「人が来る」
「カウンターに」
「犬の散歩」
「どうやって始末するんですか。こんなもん」
「変な犬だ。足の毛を引きずっている。ぞうきんみたいだ。なんだ、あれ」
「マスターもびっくりするだろうな」
「よろこぶよ」
「まさか」
「たぶんね」
「最悪だ。帰ろうかな」
「まだまだ朝は明けないから」
「これ以上散らかさないでくださいよ」
「うん。持って帰るんだ」
「じゃあ全部」
「こんなの持ってたら目立つからいい。こうして、花びらだけ、ポケットに入れて持って帰る」
「持って帰って、どうするんです」
「落ちてるやつじゃ、だめなんだ。踏みつけられて、ぐしゃぐしゃになってしまった。散る前の、枝についているやつじゃなきゃ」
「それで、どうするんです」
「おみやげだよ」
「へえ、奥さん」
「いや」
「じゃあ」
「きみは知らないのか、そうか」
「なにが」
「いま親戚の子が来てるんだ」
「知りませんでした。聞いてないから」
「女の子」
「でしょうね」
「いくつかな、小学校の、三年生かな」
「じゃあ、八歳とか、九歳」
「うん。いま来てるんだ」
「へえ」
「あずかってるんだ」
「春休みかなんか」
「まあ、うん。まあね」
「いつからです」
「うん」
「あの」
「うん。去年」
「はあ」
「トイレ」
「どうぞ」
「ああ。おい、眠くならないか」
「いいえ」
「気のきいたことを言え」
「どうしたんです」
「どうもしないよ」
「すいません」
「なんのことだ」
「なんだか」