ずいぶんと唐突ですが、皆さんは「ムジナ」と聞いて何を想うでしょうか。どんなモノをイメージするでしょうか。何か動物っぽい。獣。ケダモノ。ケダモノよ。あなた、ケダモノよ!
……少し、落ち着いてください。
「ムジナ」は確かに獣っぽい。しかし落ち着いて考えてみると、具体的にどのような獣なのか、ちゃんとわかる人は少ないのではないでしょうか。
中には――これは相当の数寄者、好事家と言わざるを得ませんが、小泉八雲ことPatrick Lafcadio Hearnの『KWAIDAN』(怪談)に収録されているワンエピソードを想起した人もいるかもしれない。そのMujina、これもまた捉えようのない姿をしている。読んでいない人に対してネタバレになるので詳らかには書きませんが、ある意味、非生物的な姿をしている。
具体性のないケダモノであれ、非生物的なそれであれ、このとらまえようの無さこそが「ムジナ」なるものの一つの本質であると言えるかもしれません。
待て。いやいや待て待て、…と貴方は思ったかもしれません。何かどんどんと都合よく前提を共有させようとしているが、冗談じゃないぞ、と。「ムジナ」を知っているぞ、私は「ムジナ」を確かに知っているんだ。一個の、一種の、特定のイキモノとしてのムジナを、私は知っているんだと。そういう貴方もそこにいるかもしれません。
そんな貴方にとって、ムジナとはこれかもしれません。
(画像はPixabayから。作者:takanashi66)
もしくはこれかも。
(画像はWikipediaから。作者:Nzrst1jx)
違う?ではこれですか?
(画像はFlickrから。作者:yuki_alm_misa)
他にも様々な生き物が「ムジナ」と認識されている。…というより、過去、日本のあちこちに、それぞれの「ムジナ」がいた。なんなら町ごとにまちまちなケダモノたちが「ムジナ」と呼ばれていた。もう一回言うよ?マチごとにまちまち。そんな駄洒落たムジナ観を今も継承している人たちがいるかもしれません。
そしてこのように「俺の私のマイムジナ」が無数に散在することもまた、「ムジナ」という存在がまとう見透かせない濃霧のような曖昧さに寄与していると言えるでしょう。
ただし、実際に「ムジナ」という呼称を特定の生物に対して使っている人は現在ではかなりの少数派だと思われます。明治時代くらいまでは(対象が別々だったとはいえ)割とポピュラーだった「ムジナ」という呼び方。しかし大正時代からは急激に淘汰され、いわば死語となっていきます。
何故でしょうか。
よく誤解されていると思うのですが、妖怪や怪物は必ずしも科学的精神の普遍化によって駆逐されたのではありません。それは、グレムリンやスレンダーマン、口裂け女や人面犬、テケテケやニンゲンなど現代のアヤカシたちが今も囁かれ、恐れられていることから明らかでしょう。
では、アヤカシたちを放逐した最大の要因は何だったのでしょうか。
例えば「ムジナ」の場合、法整備とそれにまつわる裁判がキッカケだったのかもしれません。ーー貴方はご存知でしょうか「ムジナとはなんぞや」を法が裁いた事例のあったことを。
大正14年(れ)第306号狩猟法違反被告事件ーー通称「タヌキ・ムジナ事件」。この奇妙な裁判で被告となったのは、不運な猟師でした。彼はいつものように相棒である猟犬を連れ、猟銃を担いで山に入りました。そして「ムジナ」二匹を発見、犬と協力して洞窟へと追い込みます。その洞窟は出入り口となる穴が一つしかなかったので、猟師はその穴を岩で塞ぐと、別の獲物を探しに向かいました。そして数日後、洞窟に戻った猟師は閉じ込めておいた「ムジナ」二匹を仕留めて帰路についたのです。
猟師にとって不幸だったのは、彼が「ムジナ」を閉じ込めてから実際に仕留めるまでの数日間に、狩猟法という法律がタヌキの捕獲を禁じたこと、更に彼が「ムジナ」だと思っていた動物は、いわゆるタヌキだったこと、の二点でした。
猟師がどのように裁かれたのか、有罪になったのか無罪だったのか、についてはここでは語りません。ご興味のある方は是非、調べてみてください。当時の判決それ自体もネット上で割と簡単に読めます。
この記事では、裁判の行方そのものより、法的な判断が下されたことによる「ムジナ」への影響についてもう少しだけ考えてみたいと思います。
曖昧模糊とした言葉の不確定性によって守られていた「ムジナ」の妖力は、不幸な猟師の裁判によって祓われてしまいました。もはや、曖昧さは罪に問われてしまうのです。多くの顔を持ち、それ故に確たる顔を持たなかった「ムジナ」は、ある地域ではタヌキになり、別の地域ではアナグマになり、またハクビシンになり、とその正体を明かされ、そして「ムジナ」というアヤカシから個々のケダモノへと分離されてしまったのです。
アヤカシを生み出すのは言葉であり、また殺してしまうのも言葉なのです。曖昧さと厳密さ、そのどちらにも言葉の魅力はあります。言葉の曖昧さが無数の言葉遊びを生じさせ、時には偉大な詩歌や文学になる。一方で我々は言葉によって定義したがる。事象を厳密に捉えて、断言したくなる。裁きたくなる。そうやって人類は世界を理解し、時に変革してきました。
同時に、言葉に備わる両極の振り幅こそが数多の妖怪たちを栄えさせ、また滅ぼしてきたのです。
そして、これからもーー
蛇足。
「ムジナ」が言葉の曖昧さの中に跳梁跋扈していた頃、日本各地から集まった旅人たちはそれぞれの知る「ムジナ」について時に語り合ったことでしょう。
すると、似ているようで似ていないそれぞれの「ムジナ」に不安な気持ちになったかもしれません。同じ「ムジナ」が話者によって色も大きさも違う。指の数、尾の形状、各々が語る「ムジナ」は、みな異なっている。
ならば、そもそも、話す言葉も服装も違う、目の前にいる奴らは、果たして同じ人間なのだろうか?確かに似てはいる。しかし色々と異なってもいる。あの男の食べ方、あの女の座り方、自分とは違う。……子供の頃から慣れ親しんだ「ムジナ」すら不確かなアヤカシになってしまった今、人の姿をしているからといってそれだけでは何も確かではーー
そんな時、旅人の中に猟師をやっていた者がいて、こう言ったかもしれません。
「いろいろ違ったって、犬や音で脅かしてやればみな、穴に逃げ込む。そしたら、閉じ込めるなり炙り出して仕留めればいいのさ、所詮はーー」
ー一同じ穴のムジナよ、と。