小学生よりも前の記憶がほぼないので、そこは勘弁してください、、、
原体験ジャーニーというワークで色々思い出したのでまとめてみました。長いですが、読んでみてください
好きなことを自由にできる環境だった。門限や遊ぶ際のルールは厳しかったが、満足していた。
サッカーを始めた頃(小2〜3?)リフティングが10回くらいしかできなかった。周りの子が何十回もできている中、悔しくて図書館の本を漁るように読んで練習した。110回できるようになった。努力が実り、周囲から認められて嬉しかった。
とにかく人と喋ることが好きだった。休み時間には友達のクラスに行き喋ったり、回り道をしてまで友達と話していたかった。小学校高学年あたりからそういう傾向はあった。
サッカー部に所属していて、先輩が都大会に出場し奮闘する姿を見た。
個々の能力がとても低いサッカーチームだったが、みんな本気で練習に打ち込んだ。自主練習もした。記憶に明白に残っているのは「相手のしたいサッカーをさせない」という戦略だ。同じ土俵では勝てないからだ。都大会に2度も出場することができた。個々の掛け算でチームのパワーは何倍にもなると学んだ。また戦略の重要性も学んだ。
自己肯定感はかなり高い状態での入学。自分の学力を過信し、勉強そっちのけで部活動等の楽しいことやしたいことをした。結果、成績はガタ落ち、学年の落ちこぼれとなり部活動をやめることになった。
したいことはできなくなったのでエネルギーを勉強に注いだ。次のテストで最下位だった順位を1桁まで上げた。猛成長を学年通信に取り上げられた。努力した成果が実り嬉しかった。
成績は上がったが部活動に戻ることができなくなり、味気ない高校生活を送っていた。見兼ねた母親は焼肉屋のアルバイトを強制的にやらせた。
ここが地獄だった。ADHDの僕はマルチタスクが苦手で、飲食店やコンビニなどの勤務は基本的にご法度なのだがそんなことも知らずに働いた。
ホールには忙しいとすぐにキレる赤髪の女と、パッとしない女子大生、オーナーのババアがいた。
初めてのアルバイトかつ苦手な業務が相まって、仕事の出来なさは凄まじかったと思う。
赤髪にキレられる毎日、オーナーのババアは自分のミスを最弱の立場の僕に押し付けてくる。バイトが辛いと母親に言うが、甘えるななどのお言葉を頂き2ヶ月ほど勤務したが最終的に我慢の限界で辞めた。
パッとしない女子大生は僕に優しくしてくれた。元々、今の僕と同じ目に合っていたのだなと直感した。バイトを辞めると伝えた時、悲しそうに「えー辞めないでよ」と言った彼女。僕と一緒に仕事したかったのか、自分が最も仕事ができないポジションに戻ることを嫌ったのか今でもわからない。アルバイト恐怖症になった。
高3になり、受験に燃えていた。周囲からの評価を得たいのと、将来お金持ちになるんだという気持ちでいっぱいだったと思う。理系最難関の東工大を目指すことを決意。今思えば、あまりに無謀な目標設定だった。うちは母子家庭で貧困だった。チャレンジ支援という制度を使って河合塾にて週1コマの英語だけを取ることにした。自習室を獲得することが目的だった。
他の科目は全て独学でやった。戦略を密に立てて、出来るだけ最短距離で目的達成できるように、おすすめの参考書やその取り組み方、いつまでに基礎を固め応用にうつるか、人間の脳の仕組みを根拠とする勉強法などをインターネットを用いて情報収集しまくった。そしてそれを実践して行った。成績は思い通りに伸びた。しかし、受験期も終盤に差しかかると勉強効率が落ちていた。飽きてしまっていたのだと思う。そのまま東工大は不合格となった。
周囲から認められたいやお金持ちになりたいという外発的モチベーションでは続かないことがわかった。
1つの建築設計案を完成させて評価してもらう体験をした。その作品を完成させるに当たって思考を巡らせ、さまざまな思いを込めた。それ以降、人の創造物に興味を持った。
アルバイトにトラウマを抱えながらも、初めに応募したのは浅草で新規オープンするという和カフェ。まだ自分がADHDだなんて思ってもいない頃。オープニングスタッフで0から関われるということと抹茶が好きという理由で応募した。ここの女性店長がとてもいい人で、お母さんのような暖かさを持った人だった。
相変わらず仕事は遅かった。ガサツで不器用なのでパフェを素早く綺麗に盛るのが苦手だった。だが、それを叱責されることはなかった。
店内BGMを流すラジカセをセッティングしたり、店の雰囲気を良くするためにAmazonで照明を店長と一緒に選定した。外国人観光客への英語対応にも挑戦したりと自由に楽しく働くことができた。
最終的には、親に浅草まで往復2時間かけてる時間働いた方がいいと言われて、近場で探すことになった。
次にやったのが塾のアルバイトだ。人に教えることは昔から好きだった。ここの教室長も素晴らしい人で、人を伸ばすのが上手い人だった。事務作業という点で仕事が全くできていなかったが、教室長は僕の授業の仕方を褒めてくれた。働き方はかなり自由で、講師であるあなたたちが必要だと思うことを自由にやってくださいという方針だった。この塾では迎えに来た親御さんに授業報告をすることになっている。高い共感性で相手が求めているものを読み取って話した。そういう前向きな取り組みを評価してもらいリーダー講師となった。
耳の聞こえが悪いことで困り、調べていたところADHDという症状を知った。紛れもない自分だった。社会不安障害も併発していた。
ちょうどその頃、大学の他のみんなはこんなにできているのにと自分を卑下したり、友達の一言で傷付いたりと自己肯定感は最低だった。そのタイミングで知ってしまったから、ああ僕はやはり「劣等種」だったのかと本気で思った。でも死にたいという気持ちは起きなかった。だから劣等種で社会不適合者でも生きていくにはどうすればいいか本屋に通い模索した。
ある日、中村あやえもん著書「内向型の生き方戦略 –『社会から出て、境地を開拓する』という生き方提案」という本に出会った。
少数派である内向型は「みんなのようになれない」と苦しむ。でも多数派の外向型と同じ土俵で戦うのではなく、境地を開拓することで心地よく生きられるんだと学んだ。中学時代サッカー部で学んだ相手と同じ土俵で戦うなという考え方に共鳴し、納得した。自分の自己肯定感がググッと上がった気がした。
まずは母にADHDで悩んでいることを打ち明け、病院に行くことになった。
薬で症状が和らぐことも、自分の支えとなった。筋トレにハマり、自己効力感が高まり行動が加速した。そして彼女ができた。
同じく親に囚われた子供時代を過ごす人と出会った。彼女は親の呪縛から抜け出し、生きるので精一杯のギリギリの一人暮らしを経験した。自分の人生の主役は自分であり、自分が操縦するんだという勇気をもらった。それが今の原動力につながっている。
僕はこれから自分の人生を捧げてやり遂げなければいけないことを見極め、それに向けて行動していく。