8歳の時。
母親が貧乏な団地の生活に、少し高級感を出そうと言い出した。
そして、父親が自分のお小遣いでレコードのターンテーブルを買ってきた。
そして母親は、曲が入っているレコードを買ってきた。
母親が買ってきたレコードは、ベートーベンの「運命」。
毎朝我が家は「運命」を聞きながら朝食を取っていた。
これが、我が家の高級感だったらしい。
でも俺は、この曲が大っ嫌いだった。
この曲を作ったベートーベーンの事が凄く怖かったからだった。
以前、音楽の先生からこの「運命」という曲について聞かされた事がある。
ベートーベンは、この曲を死に際に作ったという。
この時ベートーベンは、自分の運命を呪い、死神を見ながら作ったらしい。
だから俺は、この曲もベートーベンも凄く怖くて嫌だった。
なのに朝からこの曲をかけられ、毎朝最悪の気分で過ごした。
この頃、音楽の先生にベートーベンの物凄く怖い話を聞いたばかりだった。
おかげで音楽室のあるベートーベンの肖像画を見るだけでも怖い。
音楽の授業の時、ベートーベンの肖像画だけ見ない様に目をそらしていた。
ある時、図工室に石膏で出来たベートベーンが置いてあった。
俺は、それを見て物凄い恐怖感に駆られてしまった。
もう完全にベートーベン恐怖症になってしまっていた。
案の定、夜中に1人でトイレにも行けなくなってしまった。
トイレに行く途中に、あのベートーベンの石膏像が見える。
もうそれが怖くてたまらない。
1人でトイレに行けないからトイレに行く時は、毎回母親を起こしていた。
そして、トイレのドアを開けっぱなしでそばに居て貰った。
でも母親も毎回トイレに起こされるのは嫌になってしまったようだ。
そして、とうとうトイレに付いて来てくれなくなってしまった。
母親がトイレに一緒に行ってくれないので俺は、覚悟を決めた。
1人でトイレに行くのが怖いけど、我慢できないので行くしかない。
仕方ないので俺は、ダッシュでトイレに向かい速攻戻ってきた。
その時の足音は、もの凄くうるさかったと思う。
ドタドタドタ!と鳴り響いていたはず。
きっと、父親も弟も俺の足音で目が覚めていただろう。
でも俺は、トイレに行くのが怖すぎてそんな事気にしていられなかった。
ある時、この俺の足音が問題になり家族裁判が開かれた。
俺は、家族に1人でトイレに行けない原因はベートーベンのせいだと伝た。
そして「運命」は、ベートーベンの死に際に作り死神が見えていた事。
その死神の曲が「運命」と言う事。
音楽室の恐怖の肖像画の事や、図工室にあったベートーベンの石膏像の事。
何もかも全部が怖いと話した。
こんな状態の中、更に毎朝流れる「運命」という曲。
もう最悪だった事を伝えた。
そしたら、家族全員呆れかえってしまっていた。
でも次の日から毎朝の「運命」の曲は、流されなくなった。
その代わり、テレビのニュースが流れるようになった。
おかげで俺は、地獄から解放された気分だ。
1年後。
ある日、図書館に行ったら新しく買った本が並んでいた。
その中に、あの恐ろしいベートーベンの本を見つけてしまった。
この時は、ベートーベンの恐怖も少し収まっていたがまだ怖い。
でも、本の表紙のベートーベンが俺の方を見ていて目をそらしてくれない。
俺は、おもむろにその本を手に取って、読んでみる事にした。
開いたら文字だけでベートーベンはいなかったからホッとした。
その本を読んでみると、ベートーベンという人物の事が深く理解できた。
そして凄く感動した記憶がある。
あの恐怖だった「運命」を作った時の情景も鮮明に書かれていた。
俺は、ベートーベンの事をよく知り、こいつは良い奴だと見直した。
そして、だんだん解ってくるベートーベンの事。
深く理解すると、凄く奇妙な人生を送っていた。
普通では、考えられないような人生だった。
でも当時は、ベートーベンの事が不可解すぎて理解できない事もあった。
大人になって、あの恐怖のベートーベンの気持ちがようやく理解できた。
良くも悪くも、人間らしい人だったと。