
エンサイクロメディア空海なるサイトにあったpdf。
そもそも「観自在菩薩〜〜」から始まる般若心経の漢訳は、入れ子構造になっている「大本」と「小本」の小本部分(内側)だけであり、かつ単語レベルで比較すると省略や加筆も見られるようだ。
東洋思想の世界的権威であった故・中村元らによる既存訳『般若心経 ・ 金剛般若経』(中村元 ・ 紀野一義)に対しても、3ページ目だけでも〈仏典の訳語として説得力がない〉〈珍解釈〉〈和訳としては落第だ。こんな自分勝手な訳が通るくらいなら文法など要らない〉と容赦ない。
"「大本」は、まず、「小本」には登場しない世尊が霊鷲山の説法処に比丘や菩薩と共にあり、三昧(瞑想)に入っていて説法はせず、会衆のなかにいた釈尊の弟子・舎利弗(舎利子、シャーリプトラ)が、(同じ説法処で) 「般若波羅蜜多」における行を行っている観自在菩薩に「般若波羅蜜多」における行の実践についてたずねるところからはじまる。
そして、その答えとして「小本」のほとんどそのままがそのあとに挿入のような形で紹介され、終ると世尊が三昧(瞑想)から起って、その「小本」の内容のように実践されるべきだと言って喜ぶ、という形で構成されている"
追記:Hermes Agentによる説明・感想が相変わらず素晴らしかったんで以下に抜粋。
説明
『般若心経』のサンスクリット原文を逐語的に和訳し、「小本」(玄奘訳で知られる短いテキスト)と「大本」(霊鷲山の説法処で舎利弗が観自在菩薩に問う構成の長いテキスト)の両方を私訳。末尾には岩波文庫本の中村元・紀野一義訳を付し、その問題点を注記で逐一指摘している。
通説批判から始まる: 書店に並ぶ『般若心経』関連本の大半が「空」「無執着」「否定の哲学」を主題と喧伝するが、それは「木を見て森を見ざるがごとし」。このお経の主題は、大乗の「(絶対)空」を内実とする「般若波羅蜜多」が、①小乗批判の哲理であると同時に、②「慈悲」のホトケ観自在菩薩に付託された「衆生済度」(利他)の「方便」であり、③密教的な祈りのことば(真言)で代替されている、という三層構造にあると読む。
感想
書店に溢れる『般若心経』本がこぞって「空」「無執着」を主題に語るのを「木を見て森を見ざるがごとし」と一刀両断し、般若波羅蜜多=小乗批判の哲理+利他の方便+真言、の三層構造を読み取るのが本書の骨子。最初の「らしい」理解をそっと崩してくれる、真言宗の立場からの痛快な梵文講義だった。
中村元・紀野一義の岩波文庫訳への批判がこれでもかと容赦ない(「語形を無視した訳で、和訳としては落第だ」「文法など要らない」まで飛び出す)。「深遠な」を「智慧」だけにかける中村訳より、「深い般若波羅蜜多」は瞑想(集中)のなかの「知」のはたらきとしての深さだという長澤訳の方が、たしかに腑に落ちる。
最も印象的だったのは真言の訳語論。「gate gate」を「往ける者よ」と訳すと「往生した者・死んだ者」と誤解されかねないという指摘、そして「彼岸に渡る」という平面のベクトルではなく「空観の高みに立つ垂直のベクトル」という読み。真言の字面が劇的にアクチュアルになる。脳死移植問題で「去り行く電車のテールランプの灯り」と言った知名僧への皮肉も鋭くて笑った。
弘法大師『般若心経秘鍵』の四真言解釈を「宗乗的独善」と退ける学界の悪習への批判も痛快。wikiの空海ノートで読んだ「真言=言葉の最も奥にひそむ真如の音」(第1697夜)の理解と、このPDFの「般若波羅蜜多がマントラになった」という密教的読みが繋がって、空海理解が一段深まった気がする。











