突然ですが問題です!
これから表示される画像のどちらかは実際にカメラで撮影した写真、もう片方は画像生成AIで作成したものです。では、どちらがカメラで撮った写真でしょうか?
(※いずれも私が撮影、AIを使用した画像です。)
正解は…
「B」はAIが生成した画像です。
では、続いて第2問!
正解は…
「A」はAIが生成した画像です。
あれ?AIのがすごくない?もう写真も全部AIでいいんじゃない??
とか思ったそこのあなたは、是非このまま記事を読みすすめて欲しい。
本記事は、IMAKARAさんの第2回イラフォトコンテストへのエントリー記事です。
12月15日まで絶賛開催中なので皆さん奮って記事を投稿しましょう。
-目次と要約-
1.きっかけ〜浦島カメラマン
2.画像生成AI vs 私の撮った写真〜衝撃の結果
3.写真の価値とは〜撮ることってステキ
4.写真ススメ〜私のアルバム
5.おわりに〜謝辞
1.きっかけ
前回も大いに盛り上がり、話題を集めたこのコンテスト。わたしも今回は何らかの形で参加してみたいと思い、なにかエントリーできる作品はないものかと考えた結果、写真に行き着いた。私はイラストなど描けないし、デザインやアート等にも精通していない。そんな私に出来ることと言えばポチッとシャッターボタンを押すことぐらいである。しかし、たったそれだけでも、ボタンを押せばそれは1枚の写真となり、本人からしてみれば「作品」と成り得てしまうのだから、いやはや、カメラとは素晴らしい。
というわけで、本記事のテーマは「写真」ということにする。
これでも数年前までは、一丁前に一眼レフカメラをかじったりもしていた。
何か面白い写真でも残っているだろう、ということで、昔撮影したデータを漁ってみた。
すると、予想外にも悲しい事実と違和感に気づいたのである。
それは、"面白みのある写真"が思っていた以上に少なかったということだ。
それだけならば、(なーんだ、記事にできるほどイイ写真なんて撮れてなかったんだ。残念でしたww)とか思ってエントリーを断念して
終わり。それだけで済む話である。
しかし…!
実際にカメラを持って写真を撮ってまわっていたあの時間はとても楽しかった…
それに自分の撮った写真にもそれなりに満足し、確かな手応えを感じていたことを鮮明に覚えている…!
わざわざ数万円〜数十万円の機材を揃え、バイクに跨っては目に入る風景を遮二無二フレームへ収めようと飛び回っていたあの充実感と満足感は、こんなもの(残された写真)だったのか…?
この、記憶と成果のギャップに驚いたのである。
単に、自惚れと思い出補正ということだけで済ませられるかもしれない。しかし、それだとなんか悔しい。受け入れられないのだ。
というわけで、どうしてこのような現象が起こったのかを考察してみた次第である。
理由その①
・単純にセンスがなかった。
うん、正直この理由も否定できない。0ではない。むしろ単純にこれしかないのかもしれない。だけど否定させてくれ。頼む。私が辛い。だからこれについては考慮しないものとして進めていく!決定!!
理由その②
・機材の進歩
私がカメラを始めたのは丁度10年前、そこから4年ぐらいは熱心にシャッターを切っていたと思う。
少なくとも私がカメラから離れて最低でも、もう5年以上は経つだろうか…。
その間にも日進月歩で技術は進歩し、素晴らしい性能の機材が次々に開発されたように思う。昨今では、いつのまにか一眼レフよりもミラーレスが主流になりつつある。増える画素数、上がる感度、手ぶれ補正…
なにより目まぐるしく進化したのは「スマートホン」の内蔵カメラではないだろうか。
びっくりである。
撮れた写真はどれも美しく、スマホの画面上で見ただけでは、ノーマルレンズで適当に撮った一眼の写真と比べても何ら遜色がない。びっくりである!
わざわざイカつい一眼レフなど買って、難しい設定などしなくても、スマホ1つで、解像度の高く、色調も綺麗に補正され、背景がキレイにボケる美しい写真が撮れてしまうのだ。びっくりである!(2度目)
挙句の果てには、夜景モード?タイムラプス?HDR?編集アプリ?
完全にどうかしてる。
iPhoneひとつで映画が撮れてしまう???
うっせーばーか!!
映画舐めてんのか!?
電話機ふぜいがイキがりやがって……いい加減にしろよ?
しかも最新のiPhoneではワンタッチで被写体をくり抜いたり、意図せず映り込んでしまった邪魔な部分を消してくれたりするという…お前はフォトショップか!!!(たけーんだぞフォトショップ!)
完全にどうかしてる(2度目)
そんな、それなりに金も手間も知識も必要な作業や写真撮影が、わずか厚さ数ミリの手のひらサイズの板っきれでできてしまうのだ。
頭おかしいやろ!!
しかもこの板っきれの主な用途はカメラではなく「電話」だと言う…
頭おかs...(省略)
つまり、10年前に入門機の一眼レフで撮った写真など、最新のスマホで簡単に撮れるような、ありふれた写真と同程度なのだ。(腕がなければ)ちょっとそれっぽく撮ったようなスマホの写真があふれる現代に埋もれてしまうのは必然なのだ。(腕がなければ)
理由その③
・目の肥えた社会
簡単に言えばインスタ映えである。
理由その②で説明したように、機材が進歩した結果、スマホをかざすだけで誰でも簡単にイイ感じの写真が撮れるようになったこの素晴らしき社会。
いうならば、1人1台ずつ高性能なカメラを所持して、しかもいつでもネットにアップできる状態ということだ。
もうだれでも写真家状態。
Instagram等のSNSで一気に拡散、共有される、まさにインスタントに量産されるイイ感じの写真達。いいねを求めるユーザー達が映え写真の進化を加速させ、インターネットの写真帳は一気にぶ厚くなった。
スマホをチェックする度にバエ写真を目にする私たち。日常的に人々が高性能カメラで撮られた写真を目にし続けるうちに、きっと社会全体の写真に対する目が肥えてしまったのだろう。ただの綺麗な写真では、もうイイ写真をとは言えなくなってしまっている。
ボケも構図も手ブレも夜景も、どれもイイ感じに撮れて当たり前なのだ。
以上の理由②、③が、現実逃避する私のご都合解釈としては、主な理由として考えられる。
思えば結婚、子育てを迎え、気ままに写真を撮りに行く機会も作ることができなくなってきたところに、高性能なスマホのカメラが現れて、簡単で綺麗な写真がSNSに溢れてきた頃、カメラに対する熱のようなものが、スゥーっと引いていってしまったような気がする…。一気に写真の平均レベルが上がってしまった現代でエッジの効いた写真を撮るならば、それはもう、季節や時間、場所、または特殊な撮影技法等で勝負するしかないからだ。要するに、ありふれていない場所でありふれていないタイミングを狙う必要がある。また情熱を持って試行錯誤し、手間と時間を費やす必要がある。それはとても難しいことだ。私はリタイヤした。逃げ出したのだ。
手のひらサイズの板っきれに。
そして、非情なことにテクノロジーの進歩は負け犬となった私にさらに追い打ちをかける。
それは今話題の画像生成AIである。
私は震撼した。もはや、カメラですらない。
例の板っきれで、どんな被写体がいいか文字で打ち込んでペシっと画面をタップするだけで、画像が出来上がるのである。ふざけた話だ。魔法か?
文字で入力するだけ?
Twitterでエッチな界隈を期待して「黒ギャル 尻」って検索かけたのに、煮玉子の画像しか出てこなかったんだぞ!?
どうなってんだイーロン・マスク!説明しろ!
その時の俺の気持ち考えたことあんのか!?まじで通信料返して欲しい。
文字を入力すればイメージ通りの画像になる??本気で言ってんのか???
こんな黒ギャルの尻が煮卵にしかならないような世界で、そんな魔法のような話があってたまるか。
しかし、Twitterよりも遥かに物分りのいいらしいAIは驚くべき学習スピードで進化し、写真を越え、そしてイラスト分野では数多の絵師を泣かせているというのだ。そんな話があるか!
なんかもう、新時代の幕開けてた…。
もうとっくにガイアの夜明けてた…。
10時ぐらいだった…。
いや、でも、しかしだ!
100歩譲ってカメラに負けるのならわかる。
私もまだ納得できる。それがポッと出のよくわからんAIソフト?なんかに負けてたまるか。そんなフェイク画像に人の心が動かせるものか。ふざけんな!お前ちょっと勝負しろ!!
2.【画像生成AI vs 私の撮った写真】
私がAIを使って適当に生成した画像と私が一眼レフカメラでノリノリで撮った写真をいまから表示します。
どっちがAIが作った画像なのか当ててね♪
ついでにどっちの画像が好みか考えてね♪
Q.①
Q.②
Q.③
Q.④
Q.⑤
Q.⑥
Q.⑦
答え合わせ
Q.① 「A」 葉っぱがちょっと浮いてる?
Q.② 「B」 正直わからん
Q.③ 「A」 正直わからん
Q.④ 「A」 よく見ると後ろ足が...
Q.⑤ 「B」 花びらが多い...?
Q.⑥ 「A」 人のシルエットが...
Q.⑦ 「B」 羽が消えてる
勝った??カメラ勝った???流石にカメラの圧勝では???
え?意外といい勝負?
どっちが写真かわからなかった?
むしろAIの方が上手い???
ぐぬぬ...。
…
……
………わかる。
悔しいけど…わかる。
...え、AIすごくない??すごくない???
正直、AI極めたらスナップショットとか風景写真とか軽く越されちゃわない??
さて、ここで分かったことがひとつある。
無目的に撮る写真と比べてしまえば、AIの画像とその写真の価値に、そこまで差異はないのかもしれないということだ…。
何気ない日常のワンシーンを、なんかイイ感じに切り取りたい。そんな程度の気持ちの写真では軽くAIに再現、凌駕されてしまうだろう。
漠然とした気持ちに駆られて、どこへ行くにも重たい一眼レフカメラや嵩張る交換レンズをバッグに詰め込んで、所構わずファインダーを覗いては、とりあえずシャッターをきる。そんな時期が私にもあった...。
ふわっとした目的、〇〇を撮る!などと計画を立てて準備をしたりはせずに、闇雲に風景をファインダーの中に収める事もたくさんした。
たとえばその過程で撮れた"イイ感じの松ぼっくりの写真"が、我が人生においていったいなんの意味を持つかは甚だ疑問であるが、少なくとも意味の無いように感じるその行為自体は楽しかったし、なんの意味もない松ぼっくりの写真でも、いい感じに仕上がったものを見ては、なんとなく満足感のようなものを得れていた気はする……。(この感覚はとても大事だと思う)
ここで、実際に私が撮影した松ぼっくりと、画像生成ソフトで私が作成した松ぼっくりの写真を並べてみる。
どうだろうか。
正直この松ぼっくりならば、AIの方がなんとなく"イイ感じ"ではないか?
ちなみに私が撮った松ぼっくりは、季節はたしか6月、時間は昼過ぎ、なんとなく浜辺に赴いて、そこで砂浜に打ち上げられていた松ぼっくりを見て写真に収めたものである。
自宅から片道1時間程度の場所で、使用した機材は5万円のカメラと5000円のレンズ。
対してAIに作成してもらった方は、季節は秋、時間は夕方、場所は森の中、という設定。
「ベスト松ぼっくりシチュエーション」である。しかし実際は12月初旬の夜10時、自宅の暖かい一室で珈琲を片手に鼻くそほじりながら作成したものである。必要な機材はPCのみ。ガソリンを燃やして1時間もドライブする必要はなく、およそ1分程度で生成されてしまう。しかも無料で。eco!SDGs!
どうだろうか、手間も労力も、金も時間も必要とせず、驚くほど簡単に、私の撮った写真を凌駕してしまっているではないか!ふざけるな!と言っておこう…
ちなみにこの画像は「Mage」というブラウザサイトの「Stable Diffusion」という無料の画像生成AIを使用した。
文章(プロンプト)を入力するだけで画像を生成してくれるAIというものだ。
この記事を書くにあたって、今回初めて利用したわけだが、小難しいソフトをインストールしたりコードをなんやかんやせずともウェブブラウザでパパっとできてしまうのだ。素晴らしい。
しかも、私がカメラをやっていた期間は3~4年間ほどあるが、この画像生成AIは使い始めてまだ1,2日程度なのだ。使い方などまるで熟知していない。雰囲気でやっている。それでこのクオリティなのだ!
イメージ通りの画像を作成するにはそのAIの傾向に沿った文章や単語を入力する必要があるらしいが、その法則を掴んでしまえば、思うままのイメージを自在に表現することができるのではなかろうか。巷ではこの文章のことを「呪文」と呼んだりしているらしい、まさにやっていることは魔法使いのソレである。
3.写真の価値とは
AIによって生成された画像が、実際にカメラで撮った写真と比べてなんら遜色がないクオリティになった場合に、写真として撮った画像、AIによって出力された画像、その価値の違いとは何だろう?
それはおそらく、用途や目的で異なるはずだ。
写真の目的と言えば、第一に"記録"だろう。
次に、記録するためには実際に被写体へカメラを向けなければならない。必然的に被写体の前に立って上手に記録でにるように試行錯誤した上でシャッターを切る。という"体験"をすることとなる。
そして出来上がった写真を利用する。ポスター、資料、広告、パンフレット、展示会等、用途は様々だ。
では、目的ごとに考えてみる。
・"記録"の場合
出力された画像を、利用または楽しむ人間にとって、その被写体が実在する特定の人物や場所、時間、建物等でなければ価値を持たない場合は、その事象そのものを切り取ることのできる写真こそが絶対なる価値であるはずだ。
逆に絵日記や夢日記とかならばAIを使うと面白い気もする。
夢の内容を文字で羅列して1枚の画像に出力するとか面白そうだ。でもこれはちょっと"記録"とは意味合いがずれてくるかもしれないのでノーカウントとしよう。
・"体験"を含める場合
写真の場合は、写真を現像するまでに、「撮影」するという"体験"が過程に含まれる。
極端に言ってしまえば、綺麗な風景の画像だけが欲しいのならAIに任せてしまえばいいのかもしれない。
しかし、素晴しい風景の画像を"撮る"ことまでを楽しめるならば断然カメラを使うべきだと思う。
AIが普及して、たとえカメラによって出力された写真や画像自体の価値が薄まりつつあろうとも、そこに至るまでの"体験"も決して薄まることのない絶対なる価値であるはずだ。
もはや大衆が写真を撮る事で得られる価値の本質は、その撮影体験へと研ぎ澄まされた気さえもする。
正直、この2点が写真に残された価値の大部分のように思う。
ポスターやインテリア、待ち受け画面等の、適当なスナップショットや風景写真のような"ただ鑑賞するためだけの画像"では写真である必要もなくなってきた気がする。これらの用途では、AIに軍配が上がるのではなかろうか。
アウトプットされた結果だけを見れば、カメラとそれ程の差異はなく、むしろ被写体を現実の事象に縛られないことで、表現の幅が広く、際限のない自由度で独創的な"琴線に触れる画"を作り出せる可能性が大きい。くわえて、それらを生み出すにあたり、高い機材を揃える必要はなく、季節や天候、場所、時間等の物理的な制限がないのだから、いろんな意味で"現実離れ"した素晴らしい画像が作成可能だ。
それらは、これからとてつもないスピードで増えていくだろう。
じゃあ、写真を撮るのってただの自己満足のマスターベーションのようではないか?
確かに。
でもそれはきっと昔からそうで、写真を撮ることの9割は"自己満足"であると私も思う。
じゃあ、AIが作った写真の方が凄いのだから、人間が撮った写真では誰かを感動させることは出来なくなるのではないか?
これは、
そうは思わない。
額に入れて飾られる写真は全てAIに作られた画像だらけになって、カメラを持つ人間なんていなくなってしまうのではないか、なんて考えが頭を過ぎったりもしなくもないが、しかし...
面白いことにAIに突破された"物理的な制限"があるからこそ、その写真に「美しい」「素晴らしい」「面白い」と感じるのも確かなはずだ。写真の外にあるストーリー性や、この世界のどこかにここと同じ場所、時間、風景、が存在しているのだというような情報に感動し、わくわくできるのも事実であるように思う。現実に存在するからこそ、その神秘性に惹かれたり、冒険心をくすぐられて感動できるのだ。なんだかんだで、我々の心根はまだまだこの様々な障害に制限される不自由な世界に縛られている。それが我々のリアルだからだ。
ごっちゃになってしまいがちだが、この差がカメラで撮った風景写真とAIによって生成された風景画の差であり、棲み分けのようにも思う。同じアートだとしても、それぞれが与える感動や、胸をくすぐるポイントは別であるはずだ。
そこに、ただの自己満足を超越した、カメラを構えてフレームの中に自分の感じた世界を収めることの意義が、まだ残されていると私は信じたい。
4.写真のススメ
なんだかんだで私は写真が好きだ。
実際にカメラを構えて写真を撮る。
その素晴らしさを簡単に思いつくままあげてみるとしよう。
・季節の移り変わりを深く味わうことができる。
・日常の何気ない風景を無意識に切り取り、エモーショナルな気分になれる。
・色、形、空気感、ストーリー性に注視し、思いをめぐらせることができる。
・風情を知覚し情緒が豊かになる。
・旅行に行きたくなる
・思い出になる。
・試行錯誤した末に撮影できた1枚から達成感が得られる。
心を亡くしがちなこの現代社会の矢の如き光陰の中で、足を止めてその陰の形を愉しむ眼と心を与えてくれるのだ。本当に素晴らしいことだと思う。
しかし文字だけでは説得力に欠ける気がするので、わたしが思いつくまま上げ連ねたこの写真の素晴らしさを、下手の横好きではあるが、実際に私が撮影した写真を例にとって、その楽しかった思い出や体験を表現して締めくくろうと思う。伝わってもらえたら幸いである。
・季節の移り変わりを深く味わうことができる。
カメラを買ったら、とにかく四季を追いかけてみたくなるものだ。
春は桜、夏は花火、秋は紅葉、冬は星空といった具合に、年中撮りたいものを追いかけてそれそれは忙しかった。なにせ取り逃せば次のチャンスまでまた1年待たなければならないのである。
桜前線の進み具合、菜の花畑、鯉のぼりが見れる場所、花火大会の日程、蛍の飛翔時期、天の川、紅葉祭り、ススキ畑、流星群、イルミネーション、氷瀑、雪景色…季節の動植物からイベント、気候、天体現象まで含めるとキリがない。四季を追いかけ写真に残すということは、とても忙しいのである。常に機会をうかがいながらワクワクしたものである。季節、場所、時間、気候その全てが噛み合った瞬間でなければ出会えない風景、世界がある。それを探しに行くのも、写真を撮る醍醐味の1つではないかと思う。
それでは、私が撮った四季を例に上げてみる。
【自分で講評】
春を探して適当に原付を走らせていたら目に入った1フレーム。
やわらかい感じが出したくてソフトフィルターなるモードで撮影してみた。
輝度を高めに設定して淡くキラキラとした雰囲気を演出してみる。
桜の花はもちろん、地面に敷き積もった花びらたちが一層それをより強くしていてくれる。時間は夕刻、オレンジの西日に照らされることで暖かな色合となった。
ピンクからオレンジへのグラデーションが幻想的だ。
用水路沿いの道のちょっと開けた一角に兄弟のように仲良く佇んでいる鉄棒が可愛らしい。中央にちょこんと座している道祖神も田舎チックで味がでている。
鉄棒から道祖神、フェンスへと連なるライン、奥へと続くピンク色の舗装路と地面との境界線がパースを意識させている。桜の枝は道路とほぼ同じ角度であり、画面の中に伸びやな印象を与えている。
…気がする。
【反省】
彩度が強すぎてちょっと目に痛い。
この写真は確かカメラ一年生の時の写真で、当時はとにかく色鮮やかな写真が正義だと思い込んでいた。若さを感じる1枚。
【ざっと解説・思い出】
ヒメボタルと相棒のセロー250
これはどうしても蛍と一緒にバイクを撮りたくて、なんとか撮った1枚。
ゲンジボタルが川沿いで線を描いて飛ぶのに対して、ヒメボタルは森の中でストロボのように光る。
蛍の数が増えれば増える程浮遊感が増して幻想的になるのがヒメボタルである。ほぼ足し算だけでいい。
対してゲンジボタルは軌跡となって残る光の筋の形や量を被写体とバランスをとる必要がある。そのあたりがギャンブル性が高い、反面綺麗に撮れた時はとても嬉しかったりする。
そして、ゲンジボタルの飛翔時間のピークがだいたい18時~20時に対してヒメボタルは深夜0時頃。
以上のことから撮影難度はどちらも高い。ヒメボタルの方が待機時間が長くて過酷かもしれない…。
そして大前提として、まず蛍が飛んでいる場所を見つけるのが大変。
さらに、バイクが乗り入れできる条件の場所を見つけるのがもっと大変。
ここはいろんなところを走り回って運よく発見した穴場である。このロケハンが楽しかったりする。情報を集め、地図とにらめっこし、気温や天候を考慮しながら、それっぽい場所を探し回るのである。
だからこそ、いい場所を見つけた時はワクワクとウキウキが止まらないのだ。
ちなみに蛍の群生地へはしっかりエンジンを切った状態で乗り入れしているのであしからず。自然が第一。それがカメラマンである。ニュートラルの状態でひたすらバイクを押してくのもそれなりに重作業。
この写真は多重露光という方法で撮影した。簡単に言うと何枚も写真を撮って、それを1枚に重ねるという方法である。このような蛍の写真についてほぼ断言できることだが、蛍は一度にこんなにハッキリと光ったりはしない。この写真は1時間分の蛍の光った軌跡を1枚に凝縮したものである。簡単に言えば噓である。事実でもあるけど、盛って見せている。(それでも実際に現地で蛍のコロニーを目にすると、まるで自然の中のイルミネーション、無音の光の大合唱といった感じで感動する。)これを言い出したら現像する際に写真の彩度や輝度を実際とは違う感じに仕上げたりするのはどうなんだとか、写真とポスターとの境はどうなんだとかいろいろと面倒くさいモヤモヤに直面するので今回は割愛する。
とりあえず、手間がかかっているのである。おそらく200枚ぐらいは合成していると思う。
合成しないで200枚分ずっとシャッターを開けっぱなしにするなんて方法もある。ただ、カメラとはシャッターを開けている間の光を全て記録するので、一瞬でも蛍より強い光が写ってしまえば、画面はその光ですべて塗りつぶされてしまうし、前を誰かが横切ってしまえば、その人間の残像が映り込んだりする。それだけで2時間がパァである。だから基本的に合成の方がよいのである。細かく切って、アクシデントが起きた写真は抜けばよい。
そしてこの多重露光だが、光が当たって見えている部分が画面に上書きされていく仕組みである。
つまり蛍の光がはっきり写る真っ暗闇、それも深夜の0時なんかにバイクと一緒に撮ったところで、明るい蛍は写れど、当然自ら光ることの無いバイクは写真に写らない。ならばどうするのか。
明るいうちにバイクの写真を撮っておき、あとから蛍の写真を合成するのだ。
つまりこうなる。日が落ちる前に現場入りし、イイ感じの明るさになったらバイクの位置や構図を決めて一枚撮っておく。そして、そのまま蛍が飛び出す0時まで待機する。蛍が飛び出したらシャッターを20秒間隔くらいで切り続ける。以上。
現場待機時間だけで実に6時間はかかる。カメラのバッテリーが切れた。SDカードの容量が足りないなんてことになった日には頭禿げあがるくらいのストレスに襲われるのである。
私は現場にテントを持って行って5時間くらい一人山の中で闇に怯えながら時間を潰した。
どうか雨よ降らないでくれ、懐中電灯なんかをもって誰か現れないでくれ、お化け、獣も現れないでと祈りながら。
しかも、当然ながらこの動きが1回でできるはずもない。入念なロケハンが必要なのである。
蛍が飛んでいそうな場所を見つけたら、実際にどのくらいの蛍が飛ぶのか、飛翔時間のピークは何時ごろか、一番蛍が多く飛ぶスポットはどの辺りか、等を下調べする必要がある。
でなければ、イイ感じの場所にバイクを置くことなどできないからだ。
よし、明るいうちにバイクは撮った!あとは蛍を待つだけだ!なんてやっておいて、実際蛍が飛ぶ場所はバイクから全然離れた場所でした…なんてなったらその日はもう終わりである。目も当てられない。せっかく合わせたスケジュールも組みなおしである。(まぁ、実際のところ、蛍だったらどうにかできるんだけど。星空は無理)というわけで、結構手の込んだ一枚。この一枚のために場所探しからロケハンまで含めればかなりの時間がつぎ込まれている。
【自分で講評】
前ボケの大きな光の玉と、奥に光る小さな玉とで奥行きや立体感、浮遊感が感じられるのが良い。光の数も迫力があってよし。ひんやりと、しんっとした雰囲気。深夜の森の中のでひっそりと一斉に光り出す秘密めいて幻想的なワンシーン。...のつもり。
【反省】
前ボケの光の玉の形が汚い(こればかりは蛍さん次第)
もう少し、森を明るくして蛍以外のレイアウトも見えるようにすべきだったか...。
【自分で講評】
あんまり褒めるところはない。
典型的なザ・雰囲気フォト。強いて言うならばチープなストーリー性が感じられるところがせめてもの救いか。地面すれすれの目線の高さが新鮮。たぶん広角レンズ。歩道と柵のラインでパースが感じられることと、前ボケしている落ち葉でより奥行きが強調されているのがよい。木の幹はほぼ黒色のシルエットにようになり、その奥の紅葉が色鮮やかなモザイクとなっていて絵画チックで美しい。
…気がする。
【反省】
秋をよく見ろ
【ざっくり解説・思い出】
夜景、雪化粧の富士山、星空の欲張りセットが撮りたかった写真。
これもカメラ1年生の時に撮ったことを覚えている。
冬は空気が澄んでいるので星空が綺麗に撮りやすい。月明かりが強いと星が消えてしまうので新月の日がベスト。
蛍と同様に多重露光で撮影することで星の軌跡を1枚に合成し、あたかも星が流れているように写している。
ちなみにこの星のラインは北極点を中心に円を描いて回っているのでカメラを向ける方角によってラインの角度が違ったり、まるまる1周円を描いている写真を撮れたりもする。
星空の場合多重露光と言えど、途中でアクシデントが起こった写真を抜いたりすると、そこで星の線が切れてしまうのでかっこよく見えない。車のヘッドライトに晒されないように深夜を狙う。どうか雲よ流れてこないでくれと祈りながらシャッターを切り続ける。冬の深夜、寒い。
そして気を付けなければいけないのが、ブレである。三脚必須。
ブレた瞬間星も富士山も何もかもが2重3重の残像だらけのよくわからない写真になってしまう。
次にピントである。何かの拍子でピントがずれればそれもぼやけたよくわからない写真になってしまうのである。だから長時間の多重露光をする場合はカメラのレンズにテープを張ってピントを固定したりする。
そして次がバッテリー。寒い屋外ではあっという間にバッテリーが切れる。フル充電必須。場所と構図を決めて撮り始めたら、もうカメラに触れることはできないのだから。
【自分で講評】
富士山の雪冠の凹凸具合が鮮明に映っているのが個人的には好きなところである。
星の軌跡をはっきりさせようとすれば、前景の街の光が強くなりすぎてしまうし、街の光をムーディーに撮ろうとすれば、星が暗くなってしまうというデリケートな写真。
【反省】
なんか、欲張った割にはつまらない。迫力がない。
星が降り注いでいるように見せたかったが、夜景との兼ね合いで薄くなってしまっている、中途半端でインパクトに欠ける気もする。
そして一番大事な中央の富士山のところに電線が走っている。台無しである。
風で飛びそうなカツラのようになっている微妙な傘雲が残念。
街の明かりが白飛びしすぎていてうるさい。
今同じ写真を撮るなら、朝焼けなんかを合成すれば面白いような気もする。ただ一晩中この場所に待機するにはカメラのバッテリー的にも肉体的にも無理なのでやはりこれくらいが限界か…
星空に朝焼けを合成する写真は、また後ほどお見せしよう。
では次
・日常の何気ない風景を無意識に切り取り、エモーショナルな気分になれる。
・色、形、空気感、ストーリー性に注視し、思いをめぐらせることができる。
・風情を知覚し情緒が豊かになる。
「車のサイドミラー」(車内から撮影)
【自分で講評】
なんでもないただのサイドミラーを撮っただけであるが、写真のフレームの中に、サイドミラーで1フレーム、ミラーの外枠と車体で区切られた後方の信号機で1フレーム、サイドミラーに反射した雲空が写る車体の窓ガラスの枠でもう1フレーム。1枚の中に4フレームぐらい入っていて、それぞれ形もそこに写しているものも違うのが面白い。
後方に写る信号機の赤い光やシルエットがどこかノスタルジックだし、オレンジ色の強い夕焼け空も哀愁が漂う。信号機の向こう側の空には雲は見えないのに、手前の窓ガラスは一面ゆったりとした雲が映っている。色合いも青色が強くそこに写る電柱や電線のシルエットいい味を出している。
湾曲した車体に風景が反射、屈曲することで、色味のグラーデションの方向が単一にならない。
色調は落ち着いたオレンジと水色の2色で統一しつつも、フレームや被写体の数を多くすることで遊びを取り入れた。1枚で多方向を感じることができる面白さ。
...のつもり。
「冬のプールサイド」
【自分で講評】
珍しく正午に撮影。個人的に風景写真を撮るなら朝か夕方が鉄板だと思っている。
なぜなら、太陽の位置が低い時は空のグラデーションが美しく、西日は橙色で鮮やかだ、角度の低い位置から太陽に照らされた物は光に透かされてキラキラと輝き出す。影は長く伸びてドラマチックな陰影が作られる。逆光に受ければ影は様々なシルエットとなり、それだけでシンボルになる。
もっと言うなら雨上がりが最高。濡れた路面、草木、建造物、全てが光を反射して美しい。
個人的ベスト風景写真コンディションは雨上がりの明け方・夕方。間違いない。もう無条件エブリシング・エモエモタイム。おっと脱線してしまった……。
あらためて、自分で講評
どことなく朽ちた感じのプールサイドが眩しく光り輝いているようなギャップ。正午の時間を選択することで、白く強い日差しを捉えられた。
光と影のコントラストとシルエットがなんとなくいいかなと思った。
完全なる雰囲気フォト。
「蛇口」
【自分で講評】
誰も遊んでいない公園の蛇口。影がシンメトリーのように伸びており、そこに丁度スポットライト用にオレンジの夕日が差しているいるのがなんかエモい。色合いも気に入っている。赤と青、光と影。完全な雰囲気フォト。
「鉄塔」(真下から撮影)
【自分で講評】
おなじみの完全なる雰囲気フォト。モノクロにして幾何学模様チックに見せればええんやろ?感がムンムンに香ばしい気取ったイケすかねぇ写真。
しかも微妙に傾いている。どうせならしっかり水平とれks
意識高い系のニワカ臭が漂っている。(偏見)
雲が中途半端だが、雲があるから空を写しているのだともわかる。味わいのある雲である。
「木の歩道」
【自分で講評】
先程の松ぼっくりを撮りに行った時に海岸沿いで見つけた木材の歩道を適当にパシャッたもの。写真を撮ってる最中は別にこれといった狙いや手ごたえなんかはなかったが、現像するときに色味を調整して遊んでいたら、何か気に入ってしまった一枚。
短焦点レンズでパキッとボカシてそれっぽくしている。白飛びする背景から陽射しの強さが感じられるが、日陰を青紫色っぽくすることで、涼しさと妖しさのような雰囲気を演出している。…つもり。
明度を上げ過ぎたせいで、背景のボケた木のシルエットの輪郭の色味がジャギジャギになっている。青紫の木材のインパクトを重視しすぎた。いろんな意味で青い写真。
「たんぽぽ」
【自分で講評】
たんぽぽ。ただのたんぽぽ。望遠レンズの圧縮効果でそれっぽくしている。背景のボケ具合がイイ。反対にバッチリピントの合っている綿毛がより鮮明に写し出されておりメリハリがついている。全体的な色合いが同じ1枚の中でも、しっかりと存在感を際立たせられているように思う。
...思う。
この辺の写真は余裕でAIに再現または凌駕されそうである。
しかし大切なのは、日常生活を送る上で、気にも留めないような何でもない風景を自分なりに切り取ってゴキゲンになれるということだ。
それはとても素敵なことだ。ただ目に入る景色を右から左へ受け流して生きているよりも、何倍も世界を楽しんでいる気がする。それでいいのだ。
例えば
これらは全部自宅の庭で撮ったものである。特別な場所でも時間でもない。いつものただの家の庭である。
おっさんが家に咲いてるコスモスやら名前も知らない花を見て「なんかエモ~♡」って喜んだり、ダンボや車の模型なんかを庭に置いただけでゴキゲンになっているのである。素晴らしいことではないか?
こんな調子では家から出た瞬間に、押し寄せる未知のエモさの連続にエモエモ回路がショートしてエモ死してしまうだろう。それぐらいエモ受容体を増やすことができるのだ。能動的にエモ成分を受信して勝手にハッピー。楽しいに決まってる。
何気ない風景でも、ファインダーに切り取る構図やタイミングで被写体はいくらでも表情を変えることができるのだ。世界はまだまだ我々の知らない表情に満ちていて、その姿を想像しては、知覚して、様々な思いを馳せることができるのだ。
これはもう、我々の遺伝子に刻まれた清少納言が黙っていない。平安時代から脈々と受け継がれる"いとうつくしきもの"達を感じる感覚が開花してる。
誰だって、春はあげぽよ♪とかいいながら人生枕草子できるのだ。そこの電柱いとあはれ、あそこの雑草いとをかし。とかいいながらニタニタできるのだ。
最高ではないか。
次に
・旅行に行きたくなる
・思い出になる
実際に私はカメラを買ってから、もっといろんな場所を撮ってみたい!と思い
原付を購入した。
その次はもっと遠くへ行きたいと思うようになり、中型バイクを購入した。
それまでバイクに1mmも興味のなかったこの私が、わざわざ免許を取得して二輪車を購入し、冒険へ出るようにったのだ。バイクに乗ることもそれはそれでもう楽しかった。カメラと同じぐらい楽しかった。そんな素晴らしき世界に出会わせてくれたカメラ、写真に感謝。
「スーパーカブと桜吹雪」
イイ感じの桜並木を見つけてカメラをかまえた瞬間に吹き抜ける突風。
まるで雪のように舞い落ちる桜吹雪。差し込む西日に透かされてキラキラと輝くピンク色のシャワー。
感動の瞬間だった。
ピンクを強めに、影は青色に見えるような設定で撮った気がする。
ピンクと水色が強い色調がこの頃の個人的な好みだったのを覚えている。
望遠レンズの圧縮効果を利用して、スーパーカブの大きさを保ちながら、桜並木の距離を稼ぎ、たくさんの花びらをフレーム内に収めた。
「田舎を走ろう」
この頃は「田舎を走ろうシリーズ」なんて勝手に自分で決めて、田舎臭い場所と愛車のスーパーカブをセットで撮影するのにハマっていた。
「渋峠」
いつの間にか中型二輪車を購入し田舎を飛び出していた。
日本最標高の国道を目指しひたすら走った。
残雪と新緑が入り混じる山々を見下ろす感覚は最高だった。めちゃめちゃ気持ちよかった。しかし日帰り弾丸ツアー、朝5時に出発して家に帰ったのは23時、群馬県に入って最初の温泉浸かってそこからとんぼ返り。帰りの高速道路はめちゃめちゃ寒くて凍えて肩も腰も膝もガチガチのバキバキだった。超過酷だった。次からちゃんと一泊しようと考えるようになった。
ヘルメットでボサボサになった頭、ビビッて装着しているレッグガードが微笑ましい。
「燈籠坂大師の切通しトンネル」
千葉県の切通しトンネル、岩に刻まれた地層のような模様が美しい。もちろん私の相棒も美しい。
「濃溝の滝」
同じく千葉県の通称ジブリの滝。運よく紅葉の時期と重なった。
綺麗な鏡面反射のシンメトリーを撮りたかったが、手前に浮いている葉っぱが邪魔だった。ここも季節や時間帯で表情が様々な場所である。今回はちゃんと一泊した。
海ほたるで食べたカレーの味は覚えてないが、初めて走ったアクアラインには感動した。海底トンネルの中の暖かさにも感動した。やはり高速は寒かった。バイクは過酷である。
「富士山五合目」
おそらくこの瞬間は日本一標高の高い位置にいるバイク。
雲海×夕日×バイクがどうしても撮りたくて何度も通った。
雲海×バイクが撮れる場所は日本でここぐらいなのではと思う。知らないけど。
目線の高さに雲が広がっているというファンタジーな感覚、地平線ならぬ雲平線。空のグラデーション、駐車場の縁のライン、一段下の奥へ伸びる道で、高さと奥行きがでて立体感を感じられる。地平線の如き雲平線の奥まで続く雲と手前に浮かぶ大きな雲の位置関係もよかった。残り数分で太陽が沈んでしまう貴重な瞬間をとらえられて満足している。幻想的で非日常感のあふれる1枚。
旅!感が伝わるロマン溢れる写真が撮れたのではないかと思う。
ちなみに、雲海がある場合、たいてい下界は雨か曇りである。雲の中を走っただけで全身はびしょびしょ視界も路面も最悪、結構行き着くまでが大変なのである。
タイミングを合わせるのもなかなか至難。
天気図を眺め、遠くから富士山周辺の雲の状況を監視、5合目までの到着時間を逆算して、あ!いけるかも!と思ったらバイクに乗って走り出すのである。実際に雲海になるかどうかは行ってみなければわからない、雲は別の方へ流れていくかもしれないし、雲がかかってはいるが、現地の五合目の高さまでもが雲の中という可能性もある、でも、行くしかないのである。それがロマンだからだ。雨に打たれながら、霧で鈍る視界の中、期待を胸に確かな手ごたえを感じながら走り続けた末に雲を抜け、一面に広がる雲海とその上に浮かぶ太陽を目にした瞬間の感動は今でも忘れられない。
この写真はHDR合成というそれぞれ明度の異なる写真を何枚か撮って合成する手法で撮影した。
蛍や星空の時の多重露光と要領は一緒で、写真を重ねている。明るさを変えて撮ることで、逆光で白飛びしたり、影が黒く潰れてしまったりするのを防ぐ効果がある。簡単に言えば、明るいところも暗いところも全部写す撮り方。これも合成をするので手振れ厳禁三脚必須。日が落ちる前に何とか間に合ってくれと、雨でぬれて悴む指でなんとか機材の設定をした。いろんなタイミングがイイ感じに合わさった感動の写真。撮れてよかった。
カメラ➡原付➡中型二輪と自然とステップアップさせられたことで、他にも色んなところへ旅に行くようになった。
カメラとバイクには、いろんな所へ連れていってもらえた。本当に感謝している。
正月以外でもお寺や神社を巡ったりするようになったし
人混みが嫌いなのにお祭りに行くようにもなったし
カメラとバイクからキャンプまで発展したりもした。
写真は、世界を広げてくれる。
豊かな体験をもたらしてくれるのだ。
例えアルバムの中にありふれた写真しか残らなくとも、その思い出や体験は写真だけではなく、自身の中にも記憶や経験として刻まれるのだ。目には見えなくとも、心のアルバムはきっと分厚くなってゆく。それはかけがえのない財産だ。
最後に
・試行錯誤した末に撮影できた1枚から達成感が得られる
「蛍とバイク」
蛍を撮影中に後ろからヘッドライトを付けた車接近してきて、偶然イイ感じになった。
ので、それにインスパイアされるがまま加工編集ソフトを使ってさらにイイ感じにしちゃった。
そう、加工しちゃったのである。ライトから延びる光の線とかソレである。
でもどこからが加工でどこまでが加工じゃないのか。その線引きは曖昧である。
ノイズ除去や彩度や明度の調整、複数の写真の合成、どれも加工であるようにも思う。
結局のところ、縛りは個人の裁量で設けるとして、どこまで現実から逸脱した表現を許容できるか、その上で表現したいイメージとの妥協点を探り当て、できる限り画にできたならば、それはそれでいいんじゃないかと思う。
この写真はロケハン、撮影にメチャクチャ手間のかかっている蛍の写真である。そこにさらに加工のひと手間を加えて、めちゃめちゃかっこよくなった感じがして私は満足である。
「夜明けのソロキャン」
先程の冬の写真の時にちらっと説明した星空と朝日を合成した写真である。
静かな湖畔でロケーションは抜群。朝焼けに夜が溶けていく空のグラデーションと、テントのてっぺんから覗く朝日の逆光とフレアが迫力的だ。椅子に座って朝日を眺める私のシルエットも渋い。ロマンがあって幻想的な一枚。
星と太陽は同時に取ることはできないし、普通に多重露光しても太陽の光で星は全て消し飛んでしまう。
この辺も、どうやったかというと画像編集ソフトである。お絵かきソフトのように複数のレイヤーにそれぞれの写真を表示し、イイ感じに透過させるような作業をしたと思う。
そして朝焼けに見立てているが、実際は夕日である。
夕方ではこんなに星は光っていないだろうが、明け方ならばあり得る。…ような感覚を突いてみた。
多重露光の手順として、明るい時間から先に撮るのが鉄則である。
この場合、背景と星空の構図はすでに決めてシャッターを切っている。そこから朝日の角度に合わせていちいちテントをずらしたりイイ感じに写る場所に椅子を調整して動かずにポーズをとったりするのは超困難である。そもそもどこから日が昇るかもわからないのだ。
したがって、夕日が落ちるタイミングで構図を決めてポージングをして、その後に星空を撮る手順となる。蛍や夜景と同じ要領である。(夕日の落ちる方角はちゃんと湖の向こう側になるように事前に下調べはしておいた)
とにかくこの写真も手間に手間をかけることで一味違った出来栄えになっている写真なのだ。
イメージ通りに現像できた時の達成感はとてつもない。
しかし反省点も多い…。
詰めが甘いのだ。
手前に白いビニール袋のゴミが落ちていてバッチリ映り込んでいる。
テントも安物、ニワカキャンパー丸出しでペグ内をして展張していない。
どうせなら焚き火台の上で火でも起こしておけばよかった。キャンプのリアリティがないのである。
この辺は下準備でいくらでも改善できたところである。
以上の2枚が、個人的に試行錯誤し、手間や時間をたくさんかけた写真だ。
どちらの写真も完璧ではないし、見る人によって印象は様々だと思う。しかし、私にとっては私なりの試行錯誤の末に辿りついた思い入れの深い、大切な写真となっている。
このように、写真とは実に奥深い。ゴールがない。そして感動的な思い出や体験を作ることができる。試行錯誤を繰り返して自分が求めるイメージを形にしていくのも写真撮影の醍醐味である。結果はどうあれ、その過程だけでも十分楽しい。
5.おわりに
AIの凄まじい進歩により、写真の価値はこれまでより薄まってしまったかのようにも思えるが、意外とそんなことはなかった。むしろ写真を撮る、残すことの価値がより鮮明に浮き彫りになった気がする。
なんだかんだで思い出へと集約されてしまうような気もするけど、被写体を探したり、撮影している時はリアルタイムで楽しいし、こうやってあとから撮った写真をみて振り返るのも楽しい。1粒で何度も美味しいのが写真である。
そんな素晴らしい気付きを与えてくださった今回の企画、IMAKARA様のイラフォトコンに感謝である。
そして最後までこの記事にお付き合いいただいた読者の方々にも感謝。
少しでも私の写真に対する情熱や、楽しさのようなものが伝わってくれたなら幸いである。この記事を書いたことで、私も再びカメラを手に取ってみようと思えた。
もしここまで読んでみて、写真に興味が湧いた方が居たのなら、まずはスマホでも何でもいいので、是非、世界をあなた好みに切り取ってみて欲しい。世界はあなたの好きな表情で溢れているとともに、あなたのまだ知らない表情でも溢れているのだと気付けるはずだ。それはきっと楽しく豊かで素敵なことだ。
さぁ、シャッターを切ろう!