前に中国人と中国語について論争して結局、こっちが正しかったときの話。ほかの原稿を探していて見つけたので、転載しておく。
「丢不掉」の「不」の位置が「掉」の前なのは、なぜなのか? という問いを僕がタイムラインに書いたことがあります。
僕はもともとそれを「忘れられない」と訳していたのですが、「不」の位置がなぜここなのかがわからないのは、どこまでも「丢掉」をひとつの言葉としてしか考えないからではないかと考察しました。
つまり一字ごとに「掉」だけを取り出すと「し尽くす」という意味があり、「不」はその前に付いて、その「し尽くす」ということを否定していると考えました。つまり「捨てようにも捨てきることができない」というニュアンスを含んでいるからだと書きました。
僕は、現在の語感としては「丢掉」はひとつでも、もともとの意味に遡れば一字ごとに意味があるから、「不」が否定しているのは「掉」=し尽くすであるという理解によって、「捨てようにも捨てきれない」「忘れようにも忘れられない」のだという語感が伝わってくるということを言いました。
しかし、Tさん(中国人)は
「丢掉は「捨て去る」のではなく「捨てる」。中国語に「丢掉」はひとつの単語。日本語的に1文字1単語の発想では間違い。中国語の単語の成りたちはありますが、古文からの由来があっても、現代語として、二文字の「丢掉」はひとつの単語です。」
と書きました。
ではなぜ「不」は「丢」と「掉」の間にあるのか?と、僕は何度も問いを発したのですが、Tさんはそれにはけっして答えず、
「「丢」は捨てる。「丢」=「丢掉」。「丢不掉」の「不掉」は捨てられないの「られない」部分に相当する。」
という主張を繰り返すだけでした。
つまりTさんは「丢」と「丢掉」の違いをけっして認めず一体として考え、
僕の「「掉」の前に「不」があるのは「掉」という結果だけを否定している」という主張を認めませんでした。
僕の主張は、最終の訳語についてのものではなく、そういう一字ごとのもともとの語意への注目が、言葉のニュアンスを感じとるためには重要だというものです。
最終的な訳語は「忘れられない」でもいいのだけど、このような語源的な理解は重要で、そうでないと、「不」の位置について納得できず、語感が養えないというものです。
この「不」の位置については、結局、別の中国人が、
「丢不掉の掉は結果補語だと思います。結果補語がある場合 これの否定は結果補語の前に不をつけて(することができない)という意味です丢不掉 捨て尽くすことができない そして、結果補語の肯定は動詞の後ろ 結果補語の前に 得 をつけて することができる つまり、丢得掉は捨て尽くすことができる これ以外も 例文として 吃不完 食べきれない 吃得完食べ切れる 看不懂 看得懂 なども同じだと思います」と教えてくれて解決しました。
つまり、「看不懂」の「懂」がわかるという意味の結果補語であるから「読んでも、結果わからない」という意味になるという語感が、一字ごとに重要であるように、「丢不掉」の「掉」は結果補語の「尽くす」であって、一字ごとにそれを認識し、その結果を打ち消しているのだという理解は、やはり重要だったと思います。「捨てても捨てきれない」という理解です。
僕は訳語をそれに決めようとして探求していたのではなく、もともとの語感をよく理解したいための過程であったのですが、Tさんが、そのように一字ずつを考えるのは間違いと否定したので、じゃあ、なぜ不の位置がここなの?と聞くのですが、それには答えないので、長引きました。
最終的な訳語については、好みの問題もありますが、「忘れられない」でもすっきりしていて、いいと思います。その場合でもそこに、「忘れられようにも忘れられない」というニュアンスがこもっているというのは、もともとTさんが言っていたことではなく、僕が主張していたことなのです。
この歌です。デュエットしてくれるなら、中国人でも日本人でも大歓迎!
ただし、
1. 女性であること。
2.語学は丸覚えという間違った考えをもっていないこと。