僕は、facebook友達の、宗教学の堀雅彦先生は、北大の先生と勝手に思い込んでいた。
それで、ゲストハウスから車椅子で北大行けますけど会えますか?と連絡した。
じゃあ北大マルシェでお茶しましょう。正門で街合わせましょうと返事いただき、本日午後話し込みました。
宗教も文学も音楽も、初めて会ったのに、ツーカーで話せるのはいいなあ。
ただ、北大の先生というのは僕の思い込みでいくつもの私立大学でたくさんの学生を教えている。1000人ぐらい教えているのは日本でも僕ぐらいかもと言っておられた。
北大および大学院で宗教学を研究されたのは間違いではなかった。
まさしく本日完成して送られてきたという『原始文化』下巻という大部の共訳書を直接いただくことができた。
謙虚な方なのか、サインはしない方針と言っておられた。ツーショも撮ったけど、SNSには載せないでくださいとのことだった。
話は、実際の変性意識を伴う宗教経験と学問としての宗教学を軸に、時に文学、時に音楽、時に言語学と、触手を伸ばす。
『魂の螺旋ダンス』で書いておられるのを読みましたが、エリアーデ日記のあの部分に注目して展開している人はエリアーデ研究者の中にもいませんよ!という評価は光栄だった。
が、それよりも、
『蝶を放つ』は本当によい小説だった。性なるものと聖なるものがあんな風に重なっているものを書いたのは素晴らしいと言っていただいた。
そこ、実は一部のフェミニストにけっこう酷評されてるとこなんだけど。(・_・;)
それにしても、数日前に札幌で見たビートルズのコピーバンドのジョンもポールも音楽関係のお知り合いだったとは。
コピーバンドは食べていけるが、ハートのあるオリジナルを歌うミュージシャンは数十人か数百人のフアンがいても、生活できないケース多いですよねというと、まさしくそれですねと言っておられた。
堀さん自身の課題のありかは、学としての宗教学と宗教経験そのものの間にあるように受け取った。
僕自身の課題は、救済を知ってしまった宗教経験と、救済のない世界を描く文学の間にあると言った。
まさしく、文学は救済を語らないでいてこそ!ですよね。しかし、蝶を放つは救済されてもまた落ちる(山を降りるんだけど)ところで終わるからいいんじゃないですか。螺旋ダンスでしょうと言ってもらえて、勇気百倍だった。
何を書きたいと思っているのか、心の深い場所で胎動する感じがした。