(承前)
そして、僕の隣に電動車椅子で座っておられたのが、牧口一二さん。
80歳をゆうに越えているという話だったが、60代ぐらいに見える。
僕は58歳にして40代に見えるといわれることもたまにあるが、80でこの若々しさの牧口さんには負ける。
なにしろ、この方のエピソードは、戦後すぐ、学校の前のプールが進駐軍によって接収されたときのことから始まる。
ポリオによる身体障碍のため体育はいつも見学していた牧口さんのために先生が、金網の向こうの進駐軍に交渉しに行ってくれたのだという。
身体障碍のために体育に参加できない子がいるのだが、水の中なら動くことができ、何か運動ができるかもしれない。
なんとか、接収中のプールを貸してもらえないだろうか。
進駐軍は検討の末、時間帯を区切ってならOKだという返答をしたという。
こうして何が起こったかというと、その時間帯はすべての子どもが、進駐軍が接収中のプールに入ることができるようになったのである。
そしてクラスの友達は「お前がいてくれたからだ。ありがとう」と言ったという。
このことから、牧口さんは言う。障碍があってもなくても一緒に学んでいたから起こったことなんです。分けてはダメなんです。
統合教育という、大阪で発達し、実践されてきた教育の戦後における起源のような生き証人だ。
さらに話を聞いていると、大阪市営地下鉄にエレベーターをつけて車椅子が乗れるようにしてほしいという運動を続け、ついに喜連瓜破駅に最初のエレベーターを設置させたのが、牧口さんらの運動だったらしい。
それがすべての始まりとしての起爆剤となった。
駅にエレベーターがあるだけでは、車椅子は地下鉄に乗れない。
車両とホームの間には隙間や段差がある。
エレベーターでホームに来た車椅子の乗客を乗せるにはどうしたらいいか。
それを真剣に考えざるをえなくなった大阪市交通局は、今も使っているようなスロープを開発し、持ち運んで橋をかけ、使用するようになったのだという。
またいろいろな駅にもエレベーターの設置が進んでいった。
そしてそれが他の鉄道に広まり、全国に広まっていった。
今は当たり前のように僕も「〇〇駅まで行きます。スロープの手配をお願いします」と改札で言っている。
しかし、それは先駆者たちが、車椅子でも街に出るためにエレベーターの設置運動を粘り強く続け、実現し、さらには昔の大阪市交通局はその先を自分たちで考え、スロープを取り入れたからなのだ。
泣いちゃったよ。
今、僕の隣に座っているこの人が起源かあ。
その運動があって、僕は車椅子が鉄道にスロープで乗れる社会に生きているのか。
あなただったのか。
今ここでその人に会って飲んでいるのか。
僕は車椅子で行動しているとき、その先で、様々な不備を指摘している。
歩道の段差に阻まれて登りあぐねている時に、それにもかかわらず確認せずに左折してきた運輸会社のトラック後輪に接触し、体をぐねる事故になったときは、市役所にいかに当該京田辺市の歩道には段差という不備が多いかを市役所に届けにいった。
その時に長崎の模範的な歩道の写真も資料として提出した。
そんな風にして、行く先々で気づいたことを、担当者を見つけて伝え、改革されるように要請している。
それは自分のためでもあるけれど、後に続く人々が次の時代に、それが当たり前の社会に住めるようにという思いもある。
あえて詩的に言えば、自分の歩いた跡には花が咲いていってほしいというような感覚である。
しかし、それは僕に始まったことではない。
僕の前にも大勢の人たちがいて、ひとつひとつ道を切り開いてきて、今があるのだ。
僕はそれを受け継いで、さらなる未来につないでいくだけのことなのだ。
その話ともうひとつの話もつながった。
デザインの学校を出た牧口さんは、デザインの仕事の会社を54社受けたがすべて落ちたという。
あるとき、正直な社長さんに出会い、言われたという。
「なぜ、全部落ちたか、わかるか」
「わかりません」
「おまえは何の仕事をするのか」
「デザインの仕事です。座ってできる仕事です」
「バカモン。学校を出たばかりのもんがすぐにそれに専念できるか。会社には先輩がいる。最初は使い走りだ。お茶といえばお茶をもっていく。それがお前にできるか。できないとわかっているから、会社は落とすのだ。けれども、それは言えないから、言わないんだ」
衝撃を受けたという。そしてお茶を運ばせてくれと言って、片手で車椅子を操作し、盆に入れたお茶を運んだ。
やはり、揺れでこぼれてしまった。
「だから採用できない。いくら先輩でもお前に平気でお茶もってこいとは言えないんだ」
「3年間が修行期間ならその間はただで働きます」
「そんなことできるか。こんな小さい会社だけど、俺も社長だ。ただで人を雇うことなんかできない」
こうしてその会社も不採用となり、それから3年間はひきこもって家で寝ていたという。
約3年後、同級生としてデザインの学校を卒業した友人から声がかかったという。
仲間同士でデザインの会社を立ち上げる、お前も来るか。
よい友達を持ったものだ。
だが、会社の立ち上げには資金がいる。
それを出し合って設立する。
牧口さんにはそのお金がなかった。
当時のお金で200万円の出資がどうしても必要だった。
牧口さんがそれを頼むことのできる大人といえば、学生時代の先生しかいなかった。
牧口さんが頼んで回ると、ある先生がほとんど200万の全部を出してくれたという。
こうして牧口さんは仲間とともにその会社で働き始めた。
がんばってがんばって働いて、やっとのことでそのお金を返した。
返すだけではなく、何かお礼がしたかったので、どうすれば一番お礼になりますか?と先生に尋ねたという。
先生は何と言ったか。
俺には何もしなくていい。
お前に続く次の世代の誰かが、お金に困って道が開けないときに貸してやれ。
それが順番に巡っていく恩返しだ。
よく聞くと、その先生もそのまた上の世代からお金を借りて、今の自分があるのだと話してくれたという。
今、聞いた話はぜんぶ本に書きましたか。
と僕は聞いた。
だいたいのことは書いたよ。
と牧口さんは答えた。
その時、この宴会に誘ってくれたK・Jさんが、口をはさんだ。
「こういう話はめったにされないの。ふだんは、ただの大酒飲みのエロいおっさんをしているの。でも、あびちゃんのために珍しくこの話をしたのよ」
えええええええ。
何、この託されたものの深さ、豊かさ。
泣いちゃうよ。 (まだまだ続く)