生と死の境が定かではない羊水の中に浮かんでいるまだまだ未熟な胎児は、目を閉じたまま自分の親指を吸っていた。
胎児には直線に進んでいく時の感覚はなかった。
ただ母親の心臓の鼓動の穏やかなリズムが無限に円環していた。
母親の胸を突き上げる「ああ、我が子を孕んでいるのだ」という喜びも、「異質なものを内部に抱えている」ことへのふいに訪れる破壊衝動も(若い母親はそれを無意識に押し込んでいたため、それはただ身体だけを通して悪阻という形を呈したのであるが)、脈打つ赤い血液となって胎児に流れ込んだ。
それらのすべてを胎児は前頭葉の目覚めなしに全身であるがままに感じていた。
生と死の境界のない世界から、形ある、愛も憎しみもある世界への出発はもう間近に迫っていた。
母親の鼓動が乱れ、子宮が胎児を圧迫するほど収縮する。
胎児は忽然として目を見開いた。
と同時にその脳の中にも最初の光が薄暗いカンテラのように灯った。
カン!と鹿威しの竹筒が石を打ち付ける音がした。
それはまだ人間としてのいわゆる意識という定型を持つほどのものではなかったが、脳神経パターンにエマージェンシーを知らせるパルスが光って走り、胎児は目覚めた。
本能だけが時の早すぎることを知っていた。
今、外界に放り出されるのは、人工衛星の中から暗黒の宇宙に投げ出され、命綱が切れ、果てしなき漆黒に吸い込まれてしまうのに似ている。
準備の整った船が慌てず騒がず、潮風を孕み、ゆっくりと港を出ていく穏やかな船出とは異なる。
暗い産道に有無を言わせぬ力で押しつけられながら、胎児はパニックに陥った。
あれほどの穏やかな羊水の漂いの中で、夢から覚めたとたん、まだ生を知らぬ胎児に、死が迫っていた。
ゆっくりと産道を回転しながら広い肩幅を出口の縦の亀裂に合わせられるように回転していく予定だった。
だが、その準備が胎児に出来てはいなかった。
微睡みはまだまだ続くはずで、準備の期間はほころびる蕾みのように保証されるはずだった。
だが、その時が突然訪れたため、母胎と胎児の共同作業はリズムのずれを深めるばかりであった。
焦るほどに事態は混乱し、緩やかにたゆたっていたはずの臍の緒までが無用に首に絡みついた。
使い方すら知らない手の指で胎児はそれを振りほどこうと首に手をやった。
だが、水かきが消えたばかりのその手は羊水をかき回すばかりで、首に届くことすらなかった。
海に棲む魚にとっては大気は窒息死を意味する。
胎児はその死の世界に頭の先を覗かせていた。
わずかに生え始めた頭髪が血にまみれ、膣口の出口が開くたびに空気に触れてその頭頂だけが乾いた血糊に変化し始めている。
何度目かの収縮の果てに胎児はついに首を死の世界に突き出した。
白いビニール手袋をはめた女性医師の手がその頭を鷲づかみにし、強引に引きずり出す。
母親は我知らず遠吠えのような声を上げた。
だがまだ未発達な肩の部分がずるりと抜け出すと、これまでの痛みを伴う長いいきみなど嘘のように胎児の体は血の海を滑るようにズルズルと瞬く間に引きずり出された。
胎児は観念して死を受け入れた。羊水の中に揺蕩う至福の生が終わりを告げて、死の世界に釣り上げられたことを受け入れる以外に彼自身には何の選択肢もなかったのだ。
彼? そうあらかじめ超音波写真で予告されていたとおり、胎児の生はMALEであった。
小さな陰茎に不似合いなほどの立派な睾丸が、その男性性を高らかに主張していた。
医師の手は白いリネンの上で、首に巻き付いた臍の緒を急いでほどいた。
解ききっても泣き出さない。
ここでは肺呼吸をすることが新しい「しきたり」であることにまだ気がついていない。
誕生をむしろ死と感受し、あきらめ果てたようにぐったりしている。
その肺の中には飲み込んだ羊水が詰まっていてそれもまた新しい世界での「しきたり」を邪魔している。
医師は乱暴とも思える仕草で新生児を逆さづりにし、背中を叩いた。
変化は起こらない。
呼吸の途絶えているこの一分一秒がシリアスな意味を帯びていた。
酸素欠乏によって、脳細胞は一刻の猶予もなく、崩壊し始める。
医師の新生児の背中を打つ手が徐々に激しくなる。
もちろん打つことにもそれなりのリスクがあり、力任せというわけにはいかない。
絶妙のバランスを探りながら、医師が懸命に新生児の背中を打つ。
新しい世界での「目覚め」を呼びかけているのだ。
げぼっと新生児が液体を口から吐き出した。
リネンの上にぬめった液体が染みになって広がる。
一瞬の静寂。
だが、次の瞬間にはか細い声で新生児は泣き出した。
「おお。よしよし」
言いながら医師は新生児を胸に抱く。
左手で新生児を胸にかかえたまま、産湯に片手をつけて温度を確かめ、ゆっくりとかき回すと、新生児をつけ、血糊を洗い流す。
湯につかりながら、新生児はこちら側の世界にやってきてから初めて、微かなアルカイックスマイルを浮かべた。
看護師がキャスターで運んできた保育器の蓋を開けた。
医師はタオルでくるんで産湯をふきとった新生児を両手で神への捧げ物のように運ぶと、保育器の中にそっと横たえ、プラスチックの蓋を下ろした。
シューという音と共に新鮮な酸素が保育器の中に満ち始める。
このように人の言葉で表現することが許されるならば、混沌とした無意識の知覚の中で、新生児はエデンの園は追い払われたものの、ここは即地獄というわけではないことを直感していた。
気体としての酸素というまったく新しい安らぎが肺の中に満ち渡り、血流に乗ってゆっくりと全身を経巡る。
それはまもなく脳血流関門を越え、壊死し始めていた脳細胞に天上の賛美歌を届ける。