2012年 中国からの転入生のいる教室での授業より
(1)
「竹取物語」中文訳、上海のMちゃんがネットで検索して送ってくれた。
とてもいい訳だと思う。冒頭部分だけでも対照してみると、中文訳のとてもすぐれていることがわかる。
今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに 使ひけり。名をば、さぬきの造となむいひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋あ りける。怪しがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる 人、いとうつくしうてゐたり。翁、言ふやう、「我、朝ごと夕ごとに見る竹の中におは するにて、知りぬ。子となり給ふべき人なめり。」とて、手にうち入れて、家へ持ちて 来ぬ。
从前有一个伐竹的老公公。他常到山中去伐竹,拿来制成竹篮,竹笼等器物,卖给别人,以为生计。他的姓名叫做赞岐造麻吕。有一天,他照例去伐竹,看见有一枝竹。竿子上发光。他觉得奇怪,走近一看,竹中有光射出。再走近去仔细看看,原来有一个约三寸长的可爱的小人,住在里头。于是老公公说:"你住在我天天看见的竹子里,当然是我的孩子了。"就把这孩子托在手中,带回家去。
ほとんど直訳だが、やや意訳なのは、「野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに 使ひけり」を「他常到山中去伐竹,拿来制成竹篮,竹笼等器物,卖给别人,以为生计」とした部分だ。
ここは「取りつつ」の「つつ」のニュアンスも出ているし、「よろづのことに使ひけり」を「拿来制成竹篮,竹笼等器物,卖给别人,以为生计」としたのは必要最低限の(しかし必須の)意訳であり、意が非常によく通じている。秀逸だと思う。解釈がしっかりしている。
この中文を使って、日本語の古文を、日本語の現代語に訳するのと、中国語で理解するのとを同時に行う授業を、中国からの転入生Zくんのいるクラスで行うのは、とても愉しい試みになると思う。もちろん、こんなことをするのは僕も初めてだ。
漢文の授業でこういうことをしたことのある人はあるかもしれないが、古文の授業で中学でここまでするのは、もしかすると日本で(世界で)初めてかも???
(2)
冒頭はとてもよくできた訳だったのに、後ろのほうになると誤訳が多い。同じ人の訳とは思えないほどだ。
于是有一个天人拿了一只箱子来,箱子里盛着天的羽衣。另外有一只箱子,里面盛着不死的灵药。这天人说:“这壶中的药送给辉夜姬吃。因为她吃了许多地上的秽物,心情定然不快,吃了这要可以解除。”便把药送给辉夜姬。辉夜姬略吃了一点,把余下的塞进她脱下来的衣服中,想送给老翁。但那天人阻止她,立刻取出那件羽衣来,想给她穿上。
この部分など、「吃了这要可以解除」の要は药の単純ミスだとしても、「“这壶中的药送给辉夜姬吃。因为她吃了许多地上的秽物,心情定然不快」の誤訳はひどい。この中文をそのまま読むと、天人が誰かに(ほかの天人に?)かぐや姫にこの薬を献上して飲ませなさいと言ったように読める。しかし、ここはかぐや姫自身に「お飲みになってください」と言った場面である。
この取り違えはおそらく「たてまつる」という古語に対する認識不足が原因だと思う。
ひとりの天人いふ、「壺なる御藥たてまつれ。きたなき所のものきこしめしたれば、御心地あしからんものぞ。」とて・・・
即ちここの「たてまつれ」を献上しなさいとしか解釈できなかったところから、誰に向かって言っているのかの取り違えが起こってしまったのだろう。だからかぐや姫本人に「きたない所のものをお食べになって気分も)さぞ)悪いことでしょう」と直接言っている部分も「彼女はきたない所のものをたべてきっと気分も悪いでしょうから」と三人称で中文訳することになってしまったのだ。
これはけっこう初歩的なミスなので、この中文訳は中国人の日本文学「研究者」の手になるものという可能性は消えた。冒頭の部分のできの良さとの違いは大きいので、中国人の日本文学を学ぶ「学生」が分担して訳出したものなのかもしれない。
追伸 日本語ことに古文は主語がないことが多く、解しにくいという人もいる。が、実は敬語に着目すれば誰の誰への動作かはすべて明瞭となる。この部分の訳者は敬語の知識が不十分なため、誤訳に至ったのである。