大学図書館を一般人が利用する時の制限度は、その大学がどれくらいオープンかを表すひとつの指標。
普通は身分証明書を見せれば閲覧のみ可能。
時々、周辺住民が登録すれば、貸出も可能なところもある。
今までで一番閉鎖的であることを経験したのは、京都の立命館大学である。
何を調べる目的かを書く必要があり、
現職教員の紹介状が必要と言われた。
記憶では、京都精華大学は何の書類記入も、身分証明書もいらず、
カウンターに声をかけるだけで、どうぞーと閲覧許可証を渡され、入館できるラフさ。
さすがヒッピーの作った大学。
拙著『魂の螺旋ダンス』もあったし、好感度抜群だった。(笑)
北大は住所氏名などを書き、身分証明書を見せれば、一日出入り出来る閲覧許可証が渡された。
主に見たかったのは、北方資料室。
しかし、そこは突き当りの通路が狭くて、車椅子通行不能。
バックして、いちいち違う通路から入り直せば、すべての本にアプローチ可能だが、
バリアフリーに難があった。
内村鑑三やクラークの資料は当然充実していた。
クラークの言葉の背景を、クラークについての本ではなく、内村の本の中に見つけたのはこの部屋。
図書館としてこれはこれでよいのだと思ったのは、ボーダーフルの研究資料について右派の書いたものもちゃんとあることだ。
ボーダーフルの研究が盛んであることは、この記事も参照。
ボーダーレスという言葉は一般的だが、ボーダーフルという言葉は今回の北大見学で初めて聞く気がした。
岩下明裕という北大教授が研究の中心のようだったが、
要するにありもしない境界線に溢れた世界を研究するという意味だろう。
映画「バベル」のテーマに通底するものがある。
また北方資料室には、北海道に関するあらゆる資料も、充実していた。
すすきのの歴史について、生き字引美魔女の格安店で、語ってもらおうとして、敗退?した話は書いたが、
やっぱり本ほど便利なものはない。
しかし、教育委員会の作ったこの本に、すすきのに蠢く人間模様がどこまで描かれているかは、あまり期待できないとは思ったが。
北方資料室を出て、宗教学関係の開架棚をざっと見たが、
僕の目から見ると、総合大学の図書館としての限界を感じた。
書庫にはまだまだあるのだろうが、インド哲学・宗教学科があって、こんなんで大丈夫なのか?と、思った。
しかし、ピューリタンの作った札幌農学校に始まるこの大学に、
聖書の外典が揃っているのは感心した。
たとえば、トマスによる福音書は、ヒッピーなら誰でも知ってるし、僕も高校生の時からその名を聞いている。
しかし、どんな教会でも、真面目に質問する十代の若者に、牧師らはそんなものはないと言った。
北大にはちゃんとあった。
一方、僕の目を引いたもうひとつの書物群は、図書館正面の一番目立つ場所に、論文、レポートの書き方を指南する書物がアホほどあったことだ。
昔の大学には、そんなものはなかった。
何を書くか、どう書くかなど、人から言われたくもなかった。
幼少期からの、手とり足とりの間違った世話焼き教育が、ここに帰着するのだろうという感想を持った。