「浄土真宗の法事が十倍楽しくなる本」の阿弥陀経訳に取り組んでいたときの
試行錯誤のプロセスがfacebookから出てきたので、転載します。
藤田宏達の『原始浄土思想の研究』は、六方段は、仏名経が阿弥陀経に切り貼りされたのではないかという説だそうだ。
そうだとしたら、阿弥陀経における、六方段に対する僕のしっくりしなさはかなり正当な気がする。
まあ、尤も切り貼りしたにしても、したかった理由が、しっくりきたらいいんだけど。
この説では西方における無量寿仏と阿弥陀の重複も、切り貼りの名残ということになる。
そうか、切り貼りなのかと思って改めて読むと、岩波文庫の書き下しは勝手に東方でも「阿弥陀仏の」功徳を賞賛するというように、「阿弥陀仏」という言葉を補っているけど、漢文には阿弥陀仏と書いてない。
六方世界はそれぞれ一切諸仏の功徳を称賛しているだけで、皆が阿弥陀仏を称賛しているのではない。
対等だ。
梵文和訳にも阿弥陀仏の功徳を称賛しているとは書いてない。
六つの世界は対等だ。
これは切り貼りだとすると納得いく。
が、ふだんの浄土教の法話とずれるのではないのか。
いずれにしろ、諸仏の功徳という考え方と、阿弥陀の無限の功徳という考え方は次元を異にするように思う。
僕は後者の方が浄土教の成熟した段階に思えるのだが・・・。
初めからたぶんここが難所だと思っていたけど、やっぱりそうか。
すると仏教学者からコメントがつきました。
I氏
鋭いですね。
六方段について、古今、諸説ありました。
『仏説阿弥陀経』を浄土三部経として、信仰を中心に捉えれば、阿弥陀佛中心に考えることに違和感が生じます。
これが阿弥陀仏国土の限定を外すと、大乗仏教全体での六方礼賛に繋がりますね。
その意味で、突出した仏を説いているのではありません。
阿弥陀仏国土を説いている阿弥陀経でさえ、六方段を重視していますが、「切り貼り」というよりも、仏教徒が普段礼賛すべき諸仏を「挿入」していると考えたほうがいいですね。
資料論的に見れば切り貼りでしょうが、経典の性質から見ると、当然すべき挿入をしたということでしょう。
善導門下では称名念仏が第一で、彌陀一仏を念頭に起きますからこの部分で混乱が生じてしまうのでしょう。
もっとも、この説は浄土宗の教学では無視されますが、仏教学、特に文献史学の世界では非難されません。
六方段は蓮華蔵世界や密教の萌芽、あるいは関連性で述べられることもあります。
特に密教のマンダラなどと関連付けるのはチベット含めて多く見られますが、行とは関係のないコンテキストで概念とは関係のない世界を感じることはありそうです。
それを体験したのちにマンダラを見るとその薄っぺらさに幻滅すると同時に、その体験を概念の世界で必死に表そうとしたのだと感心もしました。
あび
ありがとうございます。しばらく六方段について思い巡らせます。
I氏
プロフを拝見しました。
臨死体験されているのですね。
私も交通事故で5分ほどの心肺停止状態になり近い体験をしています。
その時の感覚が「存在」というよりも「はたらき」を感じ取る、つまりエネルギーみたいなものを実感しました。
それを概念化すると六方段やマンダラになると言うのは身体で経験しています。密教における行とも違いますね。
あび
このような仏教学的苦労の跡がまるでなかったかのように、
涼しい顔で、高校生もわかるように『超簡単訳歎異抄・般若心経』を書いたように、
このような仏教学的苦労の痕跡をまるで見せずに涼しい顔で『浄土真宗の法事が十倍楽しくなる本』を書きます。
阿弥陀経本文に忠実に訳すか、浄土教の教学をとりいれるか。
自分の臨死体験や瞑想体験はどうだったか。
I氏
阿弥陀経は他の経典との有機的関係で成立しています。
説示的ではありますが、法華経に登場する釈尊は、過去世において自身の叔父がやがて法蔵比丘となり、西方極楽浄土を構えると言っています。
また往生極楽も説いています。
この叔父、甥の関係を六方段や蓮華蔵世界で見ると興味深いですね。
だから、経典は浄土教という狭い枠だけでは全てを理解しきれないと思います。
あび
うへえ。
今回は無理だ。
若い時から途切れず、研究し続けるしかなかった。
僕はとりあえず、こうします。
すべての仏は阿弥陀と同等に無限なるものであり、すべての方角に無数に今ここで、活きて働く。
そのすべての仏には他のすべての仏が含まれる。
インドラ網みたい。
どれに代表させてもそれは同じ無限なのでなんの問題もない。
今、私釈迦はそのうちの阿弥陀の極楽について語った。
このめくるめく世界で有縁の仏の国に往生を願え。
あふれんばかりの光の中で他に何ができようか。
ああ、すごい宇宙だ。
という宇宙観を背景にして、涼しい顔で訳します。