億ラビットくんが、ALISマフィアに文芸カテゴリーをつくってくださいました。
タグはこちらです。
#文芸 #詩 #発句 #エッセイ
URLはこちらです。
https://alischool.me/alis/bungei
本当は文藝としたかったのですが、それだと過去の文芸タグ記事が捕捉されないので、新字で文芸としました。
小説タグが入っていないのは、すでに小説カテゴリーが存在するからです。
しかし、小説タグ、文芸タグ、両方をつけていただくと、両方に捕捉されると思います。
発句という言葉を私が用いるのは、今、俳句と呼ばれているものは、本来、俳諧連歌の最初の575のことだという、芭蕉の頃の「はじまりの姿」を大事に思っているからです。
続くはずの77、そしてさらなる575、77・・・・が欠落していることに妙があり、片腕のビーナスのように無限の余白が生まれる。
それが発句の本意であって、非常に瞑想的な世界だと思っています。
575で完結してしまうと、一幅の絵として額縁に収まってしまい、悠久の宇宙に向けて扉を開かないと考えているからです。
しかし、これは私の考えなので、
俳句として詠んでいる方は、文芸タグ、俳句タグをつけていただければ、文芸タグの方で捕捉されるので歓迎です。
そのようなある種のこだわりからもわかるように、このカテゴリーは、文章で紡ぎだした世界を芸術たらしめようというすべてのジャンルに向けて開かれています。
タグになくても、評論でも、脚本でも、箴言でも、歌詞でもあなたが文芸だと思えばそれでOKなのです。
以下の記事に文芸のサブカテゴリーとして列挙したジャンルもぜひご参照ください。また下記の記事の表には漏れているなと思うジャンルでも、あなた自身が文芸と思うものだからこそ文芸タグをつけているものすべて、愛と敬意を表して、捕捉させてくださいね。ぺこり。
億ラビットくんのカテゴリー解放は、重奏的な自由にあふれています。
ですから、あなたがたとえば宗教や政治を語る文章は、文芸ではないのだと考えて、宗教カテゴリー、政治カテゴリーを創設されても、それはそれでかまわないと考えています。
(宗教は文芸という俗世間の技芸を超越したものだという考えが存在してもおかしくはありません。
むしろ、そのほうが一般的かもしれません。
ただ私自身が宗教的経験を実感として表現する文章は、言語藝術であると考えているので、宗教が私のカテゴリー論では、文芸に含まれているだけです。
また政治的な発言がアジテーションの型にはまったものにならず、生々しい共感から立ち上る行動につながっていくためには、その表現も言語藝術でなければならないと私が考えているだけです。)
この点については、上記「文藝カテゴリー再論」の中、「文学と宗教と政治について」という一節もご参照ください。
なにとぞ、文芸カテゴリーをよろしくお願いいたします。
繰り返しますが、億ラビットくんのカテゴリー解放は重奏的な自由にあふれています。
私がここに書いたことに賛同できない方が、たとえば「文学」カテゴリーをつくり、その定義を、似てはいるが違うものや、まったく違うものにしても、かまわないわけです。
プレミアムアリスとは、そのような根源的な解放を伴うサイトであると私自身は把握しています。
でなければ、個々の想いが最もふさわしい器を見出すことができません。
たとえば、「芸術芸術えらそうに言うな! 文は文だ。作文だ」と言って、作文カテゴリーを作られてもよいわけなんです。
その「これとは違うスタンスでいく自由」も含め、なにとぞ、よろしくお願いいたします。