・ 超越性宗教の垂直的超越運動
このように、超越性宗教はパラドックスを通じて非二元的な(不二の)根源的解放をもたらす。
そこに開かれた世界は、共同体内部にも、国家の体制の中にも収まりきることのできるものではない。
超越性宗教は、古層のシャーマニズムもその祭祀宗教化した国家宗教も、それに支えられた王権も、そのすべてを解体し、超越していく運動である。
共同体の子宮、母なる大地に繋がり直すというよりは、無防備なままに投げ出された自己を宇宙に向かって解放してしまうのだ。
ここではさらにブッダの悟りの例を検討してみよう。
ブッダは、バラモンの祭司主義に決別し、個的な探求を始める出家者となった。
出家し、裸の個人に還ったゴータマは、あらゆるヨーガの行法に習熟する。
インドには、シャーマニズムの古層が、弾圧を潜りぬけて、ヨーガという形で残存していた。
それ故にゴータマは、その個的な探求を、様々なヨーガの師匠を渡り歩くことで続けていくことができた。
こうしてゴータマは、当時のインドで可能な限りのあらゆる変性意識の次元をすべて体験する。
ブッダは六年間の苦行の中で、あらゆる変性意識を探求したと言われている。
しかし、それでも彼は「到達した」とは感じない。
六年間の苦行の果て、憔悴しきったゴータマは尼蓮禅河のほとりで美しい娘から、乳がゆの施しを受ける。
そうして菩提樹の下での瞑想において、あるがままの自己と世界に帰着する。あらゆる努力の果ての究極のくつろぎ。
その時ブッダは「今ここ」に初めからあった、自他を超えた非二元的な(不二の)意識の観照性に還ったのである。
それは「またしても別のもう一つの変性意識」なのではなかった。
「そもそもそういった様々な変性意識状態が(つまりは世界)が、どのようにして成立してくるのか。」ということの根源的な理解であった。
ブッダは、それを縁起生という原理の中に見てとった。
ここに明らかになった「法」は、イエスの「愛の神」とは別の角度から捉えられたもう一つの完全なる「超越性原理」であった。
仏教もまたすべての地上の権威を相対化する境地へと突き抜けたのである。
こうしてこの時、ブッダに自覚された自己の世界の構造こそ、後に仏教と呼ばれるようになるのである。
先住民シャーマニズムは、共同体内部の安定した文化コードの中にある個人が、ある種の精神的テクノロジーを用いて、時折り、聖なるものとの回路を開くといったものだった。
シャーマンたちは、脱魂の旅において、共同体の外部に飛翔し、そこから新たな認識やパワーを持ち帰った。だが、彼らは共同体そのものを捨ててしまおうとは考えなかった。
むしろ彼らは、脱魂の旅から帰るごとに、自然や共同体との関係性を再編成し、より深く大地と繋がっていったのである。
だが、ブッダの提示したものは、そういった人間的な生き方のコードそものの解体であったと言える。
まずそれは、共同体の文化コードも、国家の文化コードももろともに解体していく道であった。
そしてさらにそれは、人間の認識の根底である「言語のコード」や、「二元的認識のコード」までも解体していくものであったのである。
先住民シャーマニズムにおけるシャーマンたちは、基本的に共同体の文化のコードの中に生きていた。
もちろん、彼らもまた、日常的な意識を越えた様々な変性意識を体験し、日常性の外部から智慧や力を持ち帰る精神的技法を有していた。
だが、彼らは外部と内部を繋ぐことはしても、自分たちを包んでいる文化コードそのものを解体してしまうことはなかった。
ましてや、人間の認識を成立させている二元論的構造そのものを解体し、超越していこうという運動は起こらなかった。
ブッダの行った仕事は、自らを呪縛している人間的な認識構造のラジカルな解体であった。そして、二元論的な認識構造そのものの解体を経て誕生した新たなる存在を「覚醒せし者=仏陀」と宣言したのである。
イエスの仕事もまたあらゆる地上的な呪縛の解体であり、天の父のごとく成ることであった。
だが、イエスはその地上的存在の解体のプロセスを、詳細に説明する道を選ばなかった。
数多くの逆説的言辞や、無条件の救いという究極のパラドックスで、つまりは愛の行為において明らかにし続けたのだと言えよう。
・ 解放の方向性