過去のfacebookより
ほかの方のタイムラインでヨーガと仏教は同じだと思うという意見がありました。
お、お、お、それには違うという仏教者が出てくるだろうけど、僕は今はパスすると書きました。
でも片鱗だけ書いたら話が続いたので、結局、最後まで説明してしまいました。その最後の僕のコメントをここにコピペしておきます。
無色界に完全に集中している定は、「惺々とただ醒めている」ようでも、最高でも非想非非想天への集中です。
六道のうちの最高の梵天界のそのまた最高の非想非非想天への集中ですが、解脱=滅=涅槃ではありません。
六道輪廻の中にあります。梵天界への集中による静かなエクスタシーに最後の執着があります。
ここまでがヨーガの最高の境地です。六波羅蜜では五つ目の禅定の中の最高の状態です。
しかし六つ目の般若=慧ではなく、解脱ではなく、六道輪廻の中にあります。という話をしているつもりです。
慧は無常、無我、苦を聞法により理解してほとんど近づいていた人が禅定の極みにおいてそれさえも超えて得られる場合と、禅定の極みにおいて自ずから無常・無我・苦を理解して慧に到る場合があります。
それが解脱です。
ヨーガの究極は禅定の極みであって、慧そのものではないということについて今述べています。
それはウパニシャッド哲学によって梵我一如、ブラフマンとアートマンがひとつである状態と言われるものですが、アートマンという真我があり、無我ではないので、そこに仏教以前のヨーガの伝統と、釈迦の解脱との違いがあるという話です。
禅定の極みで梵我一如の境地にいるのは六道輪廻の中の有頂天です。
そこに無我であるという慧が生じるのは、ヨーガの想定外で、釈迦が初めてだと仏教では言われています。
という説明する人、つまり「ヨーガと同じ」というのは違うよという人が現われるだろうけど、僕は今はパスすると書いたんですけど、片鱗を説明してしまったため、結局、最後まで説明してしまいました。(^_^;
コメント欄より
佐保田さんというヨーガの先生は素晴しいバイブレーションだったなどの話がまだ続いたので、もうひとつレスを書きました。
振りかえりの機会を与えていただきありがとうございます。
佐保田さんの生前、僕は宇治にあったヨーガ道場へしばらく通い、直接指導を受けました。
仏教学を学ぶ学生だった頃です。最初は、同じ仏教学科の友人に誘われて行きました。
佐保田さんは素晴しい方だと思います。ヨーガがとても素晴しいものだというのは賛成です。
上に僕が書いたことは、仏教ではそう言われており、そう言う人が必ずいるでしょうということに過ぎないと思ってもらってもけっこうです。
また僕はシッダヨーガのグル、グルマイの愛称で呼ばれるスワミチッドヴィラサーナンダからシャクティパットを受け、シッダメディテーションに励んだ時期があります。
そのときはすでにサニヤシンでしたが、シャクティパットというピンポイントのテクニカルな力量においては、グルマイはバグワンよりもすごかったと僕は思っています。
これは通常の分類ではクンダリニーヨーガと呼ばれるもので、グルがそそぎこむエネルギーによって、クンダリニーが上昇し、勝手に呼吸法やアーサナが次々と展開します。
つまり、佐保田さんに学んだ、ヨーガの様々なアーサナを自分の体が、そのとき必要なだけとり、また特殊な呼吸法(たとえばバグワンのダイナミック瞑想の第一瞑想のふいごのような呼吸)がそのとき必要なだけ展開し、そして必要なだけ起こると止まりました。
それを繰り返していくうち、アナハタ(ハート)チャクラに莫大なエネルギーが集まり、それがビッグバンのように爆発し、永遠の今こことしかいいようのない静寂に入りました。
しかし、僕はそれは解脱ではなく、最高でも悲想非非想天だったと思います。
その後、アナハタまではひとりで座ってもすぐクンダリニーが上昇するようになりました。が、ヴィシュダ(喉)チャクラでそれがつっかえることが多かったです。
そんな状態の中、プーナで亡くなる前のOSHOに会いました。
一緒に座るとすぐにヴィシュダまでクンダリニーが昇り、今にも貫通しそうでしたが、その繰り返しでした。
あるとき、ヴィクラムというサニヤシンにアシュラムの庭園でエネジーヒーリングを受けました。
そのとき、ヴィクラムは、あびのヴィシュダのブロックはとてつもなく強い。それは、過去生で何度も権力にはむかって縛り首にあったからだと言いました。(あとで、あれは事実というより、ショック療法だと言っていました。過去生の事実というよりも、真実そのような構造状態(カルマというべきか)であったということだと理解しています。
そのとき、ヴィクラムは僕のヴィシュダにすごく集中してエネルギーを注ぎ込みました。
僕は過去生での縛り首のことを言われたとき、自分の今生での権力との闘いの切実さがそこから来ているかと思うとぽろぽろ泣いてしまいました。
そして、とうとう、ヴィシュダチャクラがすごい勢いで貫通し、頬をひたひたと光る漣が昇って頭頂のサハスラーラから、エネルギーが噴水のように噴き出しました。
これはクンダリニーヨーガでいえば、サハスラーラまですべての貫通であり、シッダ(達成したもの)になったことを意味するかもしれません。
実際には揺れ戻しもあったので、確信はないですが、瞬間的にはというか二三日はずっとエネルギーが完全に貫通していました。
それでも僕はそれは解脱ではなく、ヨーガのひとつの境地と思っていました。
僕が初めて解脱とはこれなのかと(あとで振り返って)思ったのは臨死体験です。しかし戻ってきたということは、それも垣間見ただけだと思っています。
今はそこまでしか言えません。
あとは、仏教学として学んだことしか言えません。