・ 「空中浮遊」の正体
麻原彰晃の書物に説いてあるヨーガの修行を実際に行ってみた多くの若者が、同じような体験をしている。
それはある意味で当然のことで、古来インドで開発され、体系づけられてきたクンダリニー・ヨーガの技法を用いれば、このような事は誰にでも起こりうるのである。
背骨に沿って、何か熱いものが昇りはじめるのを感じると同時に、私は我知らず、激しいふいごのような呼吸を始めていた。
意識してそうしたわけではなく、急に息が荒くなり、浅く激しく呼吸するといった状態が、自然に始まったのである。
片山洋次郎は『オウムと身体』という書物の中で、現代の若者は、ふだんから呼吸の浅い過換気的な状態にあると述べている。
そのため、少しヨーガの技法などをやってみるだけで、簡単に変性意識状態に入ってしまうというのである。
過換気というも、確かにひとつの鍵である。
トランスパーソナル心理学の旗手のひとり、スタニスラフ・グロフは、意図的な過換気を、潜在意識を浮上させ、誕生前後のトラウマを再体験させるための誘導に用いている。
また敏感な思春期の若者などが、極度の緊張を強いられると、自発的な過換気症候群に陥り、ひとりでに変性意識状態に入るのも、しばしば観測されることである。
これらの変性意識は、過換気状態が結果的にもたらす脳内の一時的な酸素不足が原因だと理論づけられている。
宗教学者の山折哲雄は、チベットのマンダラに見られるサイケデリックな世界を、チベット高原地帯の酸素濃度の低さと結び付けて論じている。
人間の脳はどうも酸素濃度が少し変わるだけで、簡単に変性意識に入ってしまうようである。
このように変性意識とは深い関わりのある過換気であるが、シッダ・メディテーションの最中に、私にそれが自発的に起こってきたのは、どういったわけであろうか。
生体が、エネルギーの上昇に対応して逼迫し、一気に限界を打ち破って次の次元で安定しようとする、一種の自律的な反応だったのだろうか。
さて、次に私に起こったことは、体がひくっひくっと痙攣し、その勢いでお尻がぴょこぴょこと跳ねるといった現象であった。
それは、いつか見たチベットの僧院の映像で「空中浮遊」と呼ばれていたものや、麻原彰晃が超能力として自慢していた「空中浮遊」の写真にそっくりであった。実際にはそれは浮遊などというものではなく、反り返るようなジャンプである。
ただし、そのジャンプを意図的に行っているわけではない。
意図的に行うには、いかにも不自然な動きだし、恐ろしくエネルギーを消耗する。体の中をエネルギーが突き上げ、自然に跳ねるからこそ、このようなジャンプを何度も続けられるのだ。
では、いったい、なぜこのような事が起こるのか。
私はそれを後に西洋人の先輩修行僧に質問してみた。
彼によると「上昇してきたエネルギーが、ブロックにぶち当たって、その衝撃で体が跳ね上がるのだ」ということであった。
この説明はその時の私の実感と、かなりぴたりと符合する納得のいくものだった。
彼はまた「この現象を自慢げに語るのはナンセンスだ。固いブロックがあるからこそ、こういった動きが生じるのであって、クンダリニーの通り道がきれいになれば、もうジャンプしなくてすむようになるよ」とも言っていた。
・ ハートチャクラの爆発
インドでは、上昇したクンダリニーは七つのチャクラと呼ばれるエネルギーセンターを次々と活性化していくとされている。
実際、この時の私は、シッダ・メディテーションを続けるうちに、下から四つ目のチャクラがあるとされる胸のあたりが、じんじんと熱くなってくるのを感じたのである。
初めのうち、それは「少し胸が熱いな」という程度であった。
だが、やがてそれは痛いほどの熱さになった。
それでも、何か不思議な安心感に包まれていた私は「必要なことが起こっているのだ」という確信に満たされていた。
そうしてさらに瞑想を続けるうち、痛みはまるで背中から錐を突き刺しているかのような強烈なものに変わっていった。
痛さのあまり、私は顔を歪め、激しくふいごのような息をし、深い吐息をつき、心臓発作でも起こしているかのようにぱくぱくと喘いだ。
胸の痛みが極限に達し、もう耐えられないと思った瞬間、パーンと胸の中央で花火が砕けた。
花火は四方に飛び散り、光の花びらが崩れるように流れた。(そんな感じがしたとしか、言いようがない。)