ひとつ、ちょっとした小噺をしようと思う。
非常にシンプルな話なので、小学校高学年でも理解できる。
まず大前提として、「男性」なのか「女性」なのかを厳密に判定する方法があるとする。
これはあくまでも人間という集合から、「男性」と「女性」という2つのグループを抽出する方法があると仮定する、というだけの話であって、すべての人間が「男性」か「女性」かのどちらかに属するということではない。
グループの種類は3つ (例えば「男性」「女性」「その他」のような分類) なのかもしれないし、10種類くらいなのかもしれないし、5000種類くらいあるのかもしれない。あるいは、種類の数は無限個であってもかまわない。
とにかく、「男性」というグループと、「女性」というグループを抽出することができる。
そしてこの厳密な判定に基づく抽出方法では、「男性」かつ「女性」は存在しない。「男性」であると判定されれば「女性」であることはありえず、「女性」であると判定されれば「男性」であることはありえない。
さて、ここから先は完全に思考実験の世界に入る。SFのような話、あるいは我々の住む現実世界とは違うパラレルワールドと思ってもらっていい。
西暦20XX年のことである。
人類はついに「男性脳」「女性脳」を厳密に定義することにも成功したのである。
「男性」「女性」についてはそれ以外のグループがあってもよかったが、今回のこの分類については、すべての人間が必ずこの「男性脳」「女性脳」のどちらかに属するという分類方法である。
この定義が画期的だったのは、育った国や地域、あるいは世代の違いなどに関わりなく、ある一定以上のサンプルを集めて調査すれば、「男性」のうち必ず70%の人は「男性脳」になり、「女性」のうち必ず70%の人は「女性脳」になる、という点だった。
実質的に、「男性」のほとんどは「男性脳」で、「女性」のほとんどは「女性脳」である、と考えていいということである。
その実用性の高さから、あらゆるジャンルでこの「男性脳」「女性脳」の分類は使用され始めた。
もちろん様々な異論はあったが、この「実用性」というメリットを否定しきることはできず、この分類方法は全世界の、あらゆる領域に浸透していった。
そして西暦20XX年、ある画期的なイラストが「発明」されるのである。
それは以下のイラストである。
左にウサギのイラストがあり、右にトラのイラストがある。
これは「男性脳」「女性脳」について研究していた研究グループが、様々な試行錯誤を経てたどり着いたイラストだ。
研究グループは、男性脳の人が好むもの、女性脳の人が好むもの、これらにどういった違いがあるのかを大規模に調査していた。
そして、「ブーバ/キキ効果」にヒントを得て、文化的背景などに影響されずに、とにかく男性脳の人はこのイラストを好む、とにかく女性脳の人はこのイラストを好む、というような、そういうイラストの究極形態を作成できないかと考えた。
完成したこのイラストは、女性脳の人は100%がウサギのイラストを好ましいと考え、男性脳の人は70%がトラのイラストを好ましいと考える。文化的背景によらないばかりか、「男性」か「女性」かにも影響されず、とにかく「女性脳」の人は100%がウサギ、「男性脳」の人は70%がトラ、という数字になる。
本来の「男性脳」「女性脳」の判定は、複雑な幾種類もの検査を経て初めて判定できるものだったが、このイラストはほとんど「簡易検査」として機能しているといえる。
このイラストが「発明」といえるのは、その判定方法も含めて厳密に指定しているからだ。アンケートの際にどのような機器を使用すべきかについて細かい指定があり、2つあるうちの1つのボタンを押すことによって回答するようになっている。
だから、「ウサギ……あ、でもトラかな。うん。トラ。いや待てよ、ウサギも……ウサギ……いや、うん。オーケー。」というような、どっちなのかよく分からない回答はできない。
そしてこういうアンケートを実際に大規模にやろうとすると、面倒くさがってイラストをロクに見ない人、間違ってボタンを押す人、などが出てくる。
そういうのを全部ひっくるめて、「女性脳」の人は100%がウサギを、「男性脳」の人は70%がトラを選択するようになっている。
回答までには10分間という制限があるが、10分までに回答が決められなかった場合もフォローされている。
この調査では、イラストの「見せ方」を厳密に指定しているだけでなく、アンケートの際は視線をトレースすることが義務づけられる。もし10分間の間に回答が決められなかった (どちらのボタンも押さなかった) 場合でも、回答者がどちらのイラストを長い時間見ていたかを判定し、より長い時間見ていたほうを「好んでいた」と判定するのである。
そういうわけで、「どっちも好き」「どっちも嫌い」「無回答」というような回答が存在しないように、巧妙につくられている。
だが、こういうのはこの話の本質ではない。とにかくこのイラストは、「男性脳」「女性脳」の判定の簡易検査として使えることが分かったのである。
さて、ここで問題である。
ある国から、ランダムで「男性」だけを、1万人ピックアップした。これはサンプルとして十分な数字であり、ピックアップのあり方にも問題はないとする。
はたして、この1万人の「男性」のグループは、ウサギのイラストを好む人が多いのか?トラのイラストを好む人が多いのか?
そういうシンプルな問題だ。
まず、前提を思い出してみよう。
「男性」のほとんどは、「男性脳」であるはず。
そして、「男性脳」の人のほとんどは、トラのイラストを好むはず。
だったら「男性」ばかりを集めたグループはトラのイラストを好む人のほうが多くなりそうである。
だがしかし、そうはならないのである。
これまで与えられた情報から素直に考えると、このグループのうち、トラのイラストを好む人は49%と考えるのが妥当なのである。
図に書くと分かりやすい。
0.7を二乗すると0.49になる、つまり、70%の70%は元の数の49%になるということ。
そして、『「男性」か「女性」かにも影響されず』とあるので、「男性」かつ「女性脳」であっても、「女性脳」ならとにかく100%ウサギ、ということがポイントである。
ここでは、直感に反するという意味でパラドックスとしているものの、特にパラドックスとは認識されずに、小学校や中学校の問題集などにまったく同じパターンがありそうではある。
この小噺は、もともとは恋愛にまつわる言説において「女性は○○を好む」「男性は××を好む」という断定的な言い方があまりにも多いことについて考えていた時に思いついたものである。
ここではあえて「男性」「女性」という誰にとっても身近な分類を元にしたが、「ゲイ」「レズビアン」「アセクシャル」などに置き換えても、このパラドックスから逃れられるわけではない。
そしてもちろん、「性」にまつわることとは関係なく、例えば「理系の人は」「プログラマーは」「twitter民は」「ALIS民は」など、このパラドックスにはまり込む罠はあらゆるところに潜んでいる。
さらに言えば、「イラストを好む」というような、マーケティング以外では直接的には実用的といえないようなものだけでなく、もっと切迫した状況においてもこのパラドックスは潜んでいる可能性がある。
例えば感染症対策において、「男性脳・女性脳」を「体質A・体質B」と置き換え、「ウサギのイラストを好む・トラのイラストを好む」を「Cという対策方法が効果がある・Dという対策方法が効果がある」に置き換えてもかまわない。
この「70%パラドックス」は、あらゆるジャンルにおいて、「エビデンス」というものをどのように取り扱うべきか、得られた研究結果を現実に適用しようとする時におかしなことになっていないか、ということを考える上で有効である。
なお、ウサギのイラストとトラのイラストは、「いらすとや」の以下のものを改変して使用した。
https://www.irasutoya.com/2012/04/blog-post_27.html
https://www.irasutoya.com/2017/09/blog-post_479.html