学校を建てるという方針を立ててからなかなか思うように進展せず、色々な問題も生じました。
ですが2年くらいかけてジャライ族の村人たちが頑張って自分たちで校舎を建ててくれました。
木造の建物が2棟あって、教室が3部屋と職員室という感じです。
そしてほぼ同じ時期に州政府からも公立学校としての認可がおりました。
教師トレーニングに派遣していたジャライ族の先生も村へ戻ってきてくれました。
色々なことがありましたがなんとか学校の開校式までたどり着きました。
校舎も装飾も全て手作りです。
ジャライ族の伝統楽器ゴングの演奏の中、子供達が手を繋いで校舎に入ります。
集合写真
式の後は村対抗のサッカーの試合!
大人たちはツボ酒で宴会です。
開校式の後も小さな問題は何度もありましたが学校の授業が開始されました。
校庭には手作りのシーソーがあります
この後数年は自分たちの団体が学校の運営にも関わっていたのですが、その後完全に州政府に管理を任せることができました。
おかげさまで現在でも学校は順調に運営されていて、5年ほど前からは毎年ジャライ族の卒業生も誕生しています。
開校式当時は森に囲まれた美しい学校だったのですが、あたりの森林地帯は完全に伐採されてしまい森が大きく失われました。
移動式焼畑農業中心の生活は失われてしまって、村人はみんなそれぞれの仕事を持つようになりました。
皮肉なことにこの学校はジャライ族の変化を象徴するものとなってしまいました。
学校の校舎では子供達だけではなく大人を対象とした識字教育も行われました。
この記事を書く前に写真を見ていると、当時の気持ちなんかが思い出されてとても懐かしい気持ちになりました。
ジャライ族の生活が激変する中、微力ながら彼らの生活が新しい生活へと適応するお手伝いができたのではないかと感じています。