Webマガジンに掲載するということで、インタビューを受けました。そのときのものを再構成したものです。前回に引き続き、表現者としての道を歩きだした直後から血だらけになるほどトイレの壁を殴り続けたエピソードまでをまとめます。
写真をはじめたきっかけについては、本編が最後です。
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15歳のころの話です。私は写真で表現するという作業をこのように考えていました。
ファインダー越しの現実を脳内でカスタマイズしたものをカメラとテクニックを駆使して写真に定着するという作業。
私はこの作業には夢中になったのです。しかし、この作業に没頭している限り、次のステップに進むことはできません。私がそのことを知るにはまだまだ世界中がモノクロームに見えるような時間を過ごす必要がありました。
そして、カメラは私と写真をつなぐ快楽共犯者になっていくのです。
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15歳のころの話です。私にとっての写真に関する情報源は写真雑誌でした。ライトなものからヘビーなものまで可能な限り、読み漁りました。
日本の写真雑誌です。CAPA、月刊カメラマン、アサヒカメラ、日本カメラ、コマーシャルフォト、フォトコンテストなどです。
この時代。AFカメラが徐々に支流になりつつある時代でした。ニコンF4やEOS1などが発売された頃です。しかし、私の手元にあったのはMFカメラのオリンパスOM1N。AFに対するあこがれはありませんでした。なぜなら、多くの雑誌に写真をゼロから学ぶにはMFが良いと書いてあったからです。そんな情報に踊らされていた私は、ニコンF3やキャノンNewF-1などに憧れる高校生だったのです。
ただ、MFのカメラを使っていたからこそ、短時間で様々な失敗を乗り越えながら基本的な技術を身に着けることができました。
現在は、はじめて触るカメラがデジタルカメラだという時代です。写真を見る側にとってはデジタルでもアナログでもどちらでも関係ありません。どちらも写真ですから。しかし、AFが当たり前でZOOMレンズが標準といった今どきのカメラから写真をはじめるのは大変可哀そうだと思っています。
また、スマートフォンで検索すれば様々な情報が出てくる時代です。私も当事者の一人ですが、誰でもが簡単に自由に発言できる時代だからこそ、情報を求める側に本当に必要情報に出会うのが難しいと思います。
ですから、商業的なフィルターがかかっているとはいえ、写真雑誌という限られたものしかなかった私は幸せだったのかもしれません。それにしても、15歳のころの私のお財布事情的には写真雑誌は高級なものでした。ですから、毎号毎号、広告も含め隅々まで見ていたのを覚えています。しかも、部屋を移動するときは購入したすべてを持ち歩いていたくらいの徹底のぶりです。
どの写真雑誌にも毎月順位付けされるフォトコンテストがありました。恐らく紙面の中でも人気企画だったのではないでしょうか?修学旅行の記録写真で挫折を味わいながらも積極的に写真の世界に飛び込んだ私です。お小遣いの中から工面しながらいくつかの雑誌のフォトコンテストに定期的に応募するようになりました。
そして、応募すれば高確率で何かしらの賞をもらい紙面に私の写真が掲載されることを経験したのです。
15歳の私です。有頂天になるには十分な結果でした。そして、次第にフォトコンテストの部分だけを注視するようになっていったのです。
フィルムには主に3つの分類があります。”ポジフィルム” "ネガフィルム" "モノクロームフィルム"です。詳細についてはご自身で検索してください。その上に、各種類感度別のラインナップがあります。さらに、各分類ごとに異なったメーカーのものや異なったブランドのものが多数あります。つまり、モノクロームフィルムを一つ選択するたでも何通りもの選択の中から選択する必要いがあったのです。
今の私であれば、目的に応じて様々なフィルムでテストを繰り返すことでしょう。しかし、当時の私にはそんなことできません。結局、写真雑誌に載っているレビューを見てフィルムを選択することになるのです。
つまり、自分の眼と経験で判断しているのではなく、他人の評価を当てにして選択しているわけです。当時はこの事実に何も疑いはもっていませんでした。今なら到底受け入れることはできません。
ただ、当時の私でもカラーネガフィルムのプリントの質に関しては強いジレンマを感じていました。今も昔もプロフェッショナル向けのフィルム現像所があります。しかし、当時の私は写真雑誌の広告で存在自体は知っていても利用したことなどありません。お財布事情からしてカラーネガフィルムは近くの格安現像所で現像プリントするのが通例でした。つまり、全自動で写真がプリントされるものです。
今であれば、スマートフォンで簡単にレタッチできます。しかし、当時のカラーネガフィルムでは自家プリントする以外に思い通りの色を表現することは実質無理だったのです。そこで、私はプリント作業をしなくても撮影時のイメージをそのまま作品に反映できるポジフィルムを多用していました。一番のお気に入りは、コダクローム64でした。
今での発色のバランスがどことなくコダクロームに似ているSIGMAのカメラを使っているのはそのころからのこだわりです。
16歳ころの話です。この頃の私はポジフィルムを常用しているにも関わらず、色温度について理解が足りていませんでした。ただ、月に多くて5本程度しか消費していない当時の現状。撮影するその場で脳内カスタマイズした映像を定着しようとする姿勢から、さほど重要な問題じゃなかったことも事実です。
そんな頃に、写真雑誌の冒頭分の大部分をしめる写真家の特集写真について、私は積極的にみていないことに気が付いた。
私が覚えているのは、日本でもっとも権威のある木村伊兵衛賞を受賞した方の記念特集の写真です。どなたか覚えていないのですが、たぶん、武田花さんか、豊原康久さんだと思います。なんで、この写真が評価されるのだろうか?と本気で思ったのです。
私は理解できないものを理解するために特集写真をじっくり見るようになりました。でも、そのころの私は多くの写真家に対して、なぜこの人が評価されるのだろう?と常に疑問に感じていました。
この違和感に対する答えを手に入れるのは、数年の時間と苦しい時間の日々が必要でした。
前回、中学生のころの私について少し触れました。本来の私はアイドル並みに目立って注目を浴びたいタイプです。でも、現実は引っ込み思案で自分の意見を身近な人や文章にすることは得意ですが、SNSを含め対人コミュニケーションが絶望的に苦手です。さらに、新しいことに飛び込むことに常に恐れを感じ、積極的に行動できない人間です。ただ、ときどき、何かわからない力で突き動かされる行動力を発揮することがあります。
17歳ころの話です。私は1年間の浪人生活を経験して高校に入学しました。つまり、私の17歳は高校1年生のころの話です。新潟県立長岡商業高校に在学していました。入学後に知ったのですが、私の通っていた高校には写真部がありました。入学当初から私も写真部に入りたいと思っていたのですが、どうしても心が前に進まないのです。
結局、3年間、写真部に入りたいと思いながら、その扉を開くことはありませんでした。理由は2つあります。
1年浪人して入学した私は、同級生が年下だという感じで見下していた気持ちがありました。また、雑誌のフォトコンテストで少しばかり賞を撮った経験があることから学校の写真部なんてばかばかしいと見下していたよう気がします。
あれから30年が経過して、私自身の選択がその後の人生にどうのように作用したかはわかりません。しかし、今とは違う道に進む分岐点の一つだったような気がします。
19歳ころの話です。私は横浜市港北区にある写真学校に進学することを決めていました。日本の場合、多くの場合春が進学の季節です。
この学校は翌年の入学希望者のために体験入学の機会がありました。このときにはじめて入学までにMFカメラと暗室用具一式を用意する必要があことを知ったのです。
時代は、デジタルアートがあちらこちらで話題になるようになってきた時代です。パソコンといえばMAC。写真もデジタル全盛の時代に向かってまっしぐらの時期でした。私も入学と早々にMACを購入することを夢見ていました。
そんな矢先に暗室用具一式が必要だと知ったのです。私は後ろ向きにすら見える学校の姿勢に不安を感じたのを覚えています。
東京から300キロ離れた田舎暮らしから都会に移り住んだ20歳ころの話です。学校に対して不安と不満を持っていた私は、最初の野外授業のときを迎えました。
場所は東京の下町で年1度開催されるお祭り。三社祭りの会場。与えられたミッションは2つ。
・ 画面いっぱいに顔が入る大きさの距離で写真を3本以上撮ってくる。
・ 知らない人に声をかけて、顔と全身の写真を3人分以上撮ってくる。
この2つです。そして、次回の授業までに自宅で現像し、コンタクトプリントにして持参するというものでした。フィルムはモノクロフィルム限定でした。私はこの授業をサボったのです。理由は覚えていません。ただ、怖かったのだと思います。そして、訪れた次の授業の日もサボったのです。
その間、私は使い慣れないモノクロフィルムを抱えて、独自にたくさんの写真を撮りまくりました。そして、引っ越したばかりの部屋でなれない暗室作業をし、コンタクトプリントを焼きました。さらに、その中から自信がある写真をキャビネにプリントしたのです。250枚くらいあったと思います。
そして迎えた授業。この日の授業は野外授業で撮影したものの中から複数枚選んでプリントし持参するというものでした。
授業が始まると複数人ずつテーブルに並べていくのです。その写真を見ながら私は心の中で笑っていました。こんな授業に何の意味があるのか?と思っていたのです。そして私の順番が回ってきました。もちろん、自信満々に250枚をすべて並べて、どうだ見てみろという態度で臨みました。
そして、その写真を見た先生は私に一言いいました。並べ終わってチラチラと見た次の瞬間でした。
はい、次の人。
私の自信満々で世界中がバラ色に見えていた瞬間は、突然グレー一色の世界に変わったのです。呆然としながら写真を片付けてそのまま帰宅しました。いろいろなことを考えました。でも、何もわかりません。
私は翌週の次の授業までにさらに多くの写真を撮影プリントし、再び授業に臨んだのです。前回の写真も含めて500枚以上はあったと思います。そして、再びテーブルいっぱいに並べました。先生は再び一言いいました。
同じ分類だと思う写真に並べるように指示したのです。並べ終わるのを見ると、先生自身が私の写真の分類を修正しました。そして一つの分類を指さして一言。
これと同じ分類を集めることができるのならやってみなさい。でも、あなたはまだ若い。田舎に帰って違う道を模索するのも良いかもしれないよ。
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もう、何が何だかわかりません。
私は写真を片付けて誰もいないトイレに飛び込みました。ただただ、悔しかったのです。涙もでません。手が血だらけになるまでトイレの壁を殴っていました。
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その日から4か月。私は学校に行くことはありませんでした。何をしていたかも覚えていません。
この学校には、定期的に学生一人一人の30枚前後の写真をすべての先生の前で見てもらう授業があるのです。もちろん、ほかの生徒も一緒にみることができます。
9月。夏の間の成果をみるために行われるこの授業がありました。私はそのとき、勇気を振り絞って授業を観覧しました。
そこで、私と一緒に入学し、MFカメラの操作から学び始めた同級生の急成長を目の当たりにしたのです。多くの生徒が最初の野外授業で行っていたStreet Photographyを継続していたのです。そして、その写真は一人一人の写真に独自性をもたらしていたのです。
私の視界は再びグレー一色の包まれました。彼らの続けてきた作業が変化をもたらしたことは明らかです。そして、自分がこの数か月をただ無駄に過ごしてきたことも知ったのです。
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その次の日から、私は毎日10本のトライXを持って渋谷に向かいました。彼らが続けてきた作業を追いかけるためです。
10本撮り終わるまで帰らないとう自分ルールで毎日続けました。1週間で100本くらいのペースで続けたのです。そして、毎週その写真のコンタクトプリントを先生にみてみもらいました。
そのような作業が2か月くらい続いたころの話です。
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先生の言葉の意味。野外授業の意味。暗室が必要なわけ。写真家が見ている世界。写真表現とは何か。
すべてをかけてStreet Photographyに立ち向かった日々によって、すべての答えが一つにつながったのです。
私にとっての写真家の原点は、この時です。そして、ここに至るすべてが写真をはじめたきっかけです。
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