私は子どもの頃から、できない自分に腹が立つことがあった。
姉たちが既に通っていたこともあり、幼稚園の年長からピアノのレッスンに通い始めた。
当時は、ノーミスで弾けたら次のパート、次の曲の練習に移るという方式でレッスンが進められていた。
最初の頃は簡単に弾けるようなものばかりであり、ミスをせず弾けることが多かったので、どんどん次のパート、次の曲の練習に移っていった。
しかし、レッスンを進めていくうちに課題曲の難易度も当然上がっていく。
だから、弾いている最中にミスをすることが増えた。
家で練習していた時はノーミスで弾けても、レッスンの時にミスをしてしまうこともあった。
今までスラスラ弾けていただけに、それが当たり前になっていただけに、中々思うように弾けなくなった自分にとてつもなく腹が立った。
前述の通り、姉たちは先にピアノのレッスンを習っていたので当然ながら私よりもピアノが弾けること。
そして今まで通りに一発でノーミスで弾けなくなっていったこと。
姉たちよりも圧倒的にピアノが下手くそかつ自分の思うように弾けないことがとても情けなく、悔しかった。
最初から完璧に弾ける人なんて中々いないのに、むしろ稀なのに、私は完璧に弾けない自分が受け入れられなかった。
ピアノのレッスンでミスをした時はあまりのショックに毎度大泣きをしていた。それはもう、レッスンが中断されるくらいの大泣き、怒りだった。今思えばあれはかなり異常であったし、レッスンの先生にも多大なるご迷惑をお掛けしてしまった。
結局、小学3年生の時に発表会に出てから間もなくして辞めた。
ピアノが弾きたいからレッスンを受けていたというよりは、できない自分が悔しくてできるようになりたいからレッスンを受けていた節があった。
周りの人に迷惑をかけている以上、美談として語ってはならない。何なら黒歴史だろう。
ここまで文章を書いていく中で、レッスンの先生から頂いたお手紙に書かれていた「なんでもおこらずにやれば、まわりのどんなおともだちよりもできるようになるはずだよ」という言葉が久しぶりに思い出された。
時を経て中学生、高校生になったが、その時もまたできない自分に腹が立つことがあった。
テストで思うような順位にならなかった時、自分の力だけで正答を導けなかった時。
特に印象に残っているのは、高校2年生の夏のこと。
夏休みは普段の比にならないほど膨大な量の課題が出された。
吹奏楽部で夏のコンクールの時期ということもあり部活がかなり忙しく、(言い訳に聞こえるかもしれないが)単純に考えて勉強に充てることのできる時間は他の部活よりも少ない。
高校2年生の夏休みとなれば、受験生である高校3年生の夏休みよりもまだどこかに遊びに行く余裕があったかもしれない。
しかし、私は限られた時間の中で勉強をしていかなければならないと思い込み、遊びの時間を犠牲にして自分を追い込んだ。
自宅で夏休みの課題で出された数学の問題集を解いている時、自分の力で正答を導けなかった時には悔しくて
「何でこんなのも出来ないんだよ!!!」
と泣き叫ぶことがあった。
母親にはとても心配をかけたが、悔しくても諦めず勉強していった結果、夏休み明けのテストは中々の好成績を残すことができた。
個票を渡される時に担任から嬉しそうに言われた「頑張ったね」という一言が忘れられない。
普段は冷徹そうで、生徒のことに無関心そうに見える担任がまさかあんなに嬉しそうに私を褒めるなんて。
努力が報われたことを実感した瞬間だった。
行きたかった大学にも合格して、色々あったけどなんとか卒業して社会人になって2年目となった今
できない自分に今でも腹が立つ
ただ、あの頃よりも変わったなと思うのは、できない自分に腹を立て自分を責めてもあまり良いことはないと気づいたこと
できない自分を追い込むことでそれが努力に繋がるのなら良いのかもしれないが、
ただ自分を追い込み、責め続けることが正しいことだとは思わない
自分とは一生付き合っていくわけだから、自分は自分の味方でいたい
じゃないと人生が苦しいと思う
もっと自分に優しくなりたい、できない自分でも良いと受け入れられるようになりたい
でももっと頑張りたい、できる自分でありたい
この2つがせめぎ合う