アニメ映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』(外崎春雄監督)が『千と千尋の神隠し』(宮崎駿監督)を抜き、興行収入1位になりました。21世紀になって昭和の精神論根性論が次第に弱まり、なくなっていく優しい時代を反映していると感じます。
『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』のヒーローは炎柱・煉獄杏寿郎です。杏寿郎は熱い男です。この手の人物は他人に自己の精神論根性論を強要する鬼軍曹になりがちです。しかし、杏寿郎は昭和のステレオタイプとは異なります。炭治郎に無理をさせず、守ろうとします。
ステレオタイプな物語では名もない多くの人々が犠牲になりそうです。そのような事件でこそヒーローの活躍が際立つと演出したくなります。ところが、杏寿郎は誰も死なせませんでした。これは素晴らしいことです。
新型コロナウイルス感染症では患者の需要に応えるよりも、医療崩壊阻止を名目として命の選別を進める動きが目立ちました。その医療崩壊阻止とは医療機関の崩壊阻止であって、患者は崩壊してしまいます(林田力「新型コロナウイルス検査抑制と和牛商品券」ALIS 2020年3月27日)。誰も死なせなかった杏寿郎が人気を持つことは社会にとって良いことです。
『千と千尋の神隠し』はスタジオジブリのアニメ映画で、2001年7月20日に公開されました。一見すると『鬼滅の刃』よりも穏やかな作品です。『鬼滅の刃』の方がはるかにグロテスクですが、『千と千尋の神隠し』には残酷な不条理があります。
『千と千尋の神隠し』の公開当時のキャッチコピーは「「生きる力」を呼び醒ませ!」です。これは豊かな社会で生きる力を失った子ども達への教育的メッセージとして日本社会に支持されました。グズで甘ったれ、泣き虫な少女が「生きる力」を身につける物語と受け止められました。
確かに千尋には身勝手な大人が子どもに押し付けたがっている「生きる力」なるものは欠けています。しかし千尋は大人以上に本物の生きる力を持っています。成長物語と捉えるのは大人の傲慢であり、彼女が元々有していた能力を見落としています。
冒頭の引越の車中で千尋は、ふて腐れています。これは成長する前の彼女をネガティブに描いたものと解釈されます。しかし引越は子どもにとっては、親の都合で行われるものであり、自分が育ってきて住み慣れた街、仲の良かった友達と別れなければならない辛いものです。楽しい気分になれないことは当然です。
見ず知らずの新しい町での新生活がこれまで同様である保証はなく、前向きに捉えるだけでは単なる楽天家、楽しいことしか考えられない愚かな夢想家になってしまいます。引越しについて何も感じない方が感受性に問題があります。前の町での友達との想い出に浸っている点も、過去を真剣に受け止めず、同じ過ちを繰り返す日本人の悪癖を考えれば、過去を大切にしている点で肯定的に評価できます。
その千尋の優れた能力は、湯屋の世界に行こうとする両親に「行きたくない」と言っていることです。その後も要所で「帰りたい」と発言しています。そのような千尋を父親は臆病と笑い飛ばしました。しかし、正しいのは千尋です。千尋の危険を直感的に察知し、危険を避けようとする能力こそ、まさに生きる力です。危機管理と言えば日本社会では危機に陥ってからの対処能力に目がいく近視眼的な発想が幅を利かせていますが、危機に陥らないようにするための能力の方が重要です。その方が結果的にローコストで済みます。
「行きたくない」と主張した千尋が、千尋の発言を無視した両親を助けなければならない状況は不条理です。馬鹿な親のせいで苦労しなければならない子どもは可哀想です。『もののけ姫』のアシタカも村を守るために戦った結果、呪いをかけられ村を出て行かなくなったという点で不条理です。しかしアシタカが村を守るという価値を達成するためであったのに対し、千尋には湯屋の世界が自分の住む世界とは違うことを最初から本能的に感じており、そこへ行くことに価値はありません。それを成長するための試練という意味を持たせるならば、「しつけ」の名目で子どもを虐待する大人の論理に接近します。
現代の格差社会も根本は世代間の格差です。就職氷河期で新規採用が抑制された世代が非正規労働者となることを余儀なくされました。それを試練と位置付けて、「生きる力を獲得して乗り越えろ」と主張するならば不条理極まりないものです。一方的に不条理を押し付けておきながら、それを乗り越えられないのは当人に生きる力がないからという類の愚かしい主張はしないようにしたいものです。
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