埼玉県川越市の三芳野神社は冤罪で左遷された菅原道真を祀り、童謡「通りゃんせ」の発祥の地とされます。三芳野は歴史のある地名です。『伊勢物語』に「入間の郡みよし野の里」が登場します。登場人物の間で「みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる」「わが方によると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れむ」との和歌が交換されました。
三芳野神社は平安時代初期の大同年間(八〇六年から八一〇年)に大宮氷川神社を勧請して創建されました。この時点で菅原道真は神になっていないどころか、生まれてもいません。長徳元年(九九五年)に道真の子孫の菅原修成が武蔵守になり、北野天満宮より勧請しました。道真の子が淳茂(あつしげ)で、在躬、輔正、修成と続きます。
長徳元年は一条天皇の時代です。中関白・藤原道隆と七日関白・藤原道兼が相次いで亡くなり、弟の藤原道長と道隆の子の藤原伊周が権力争いを繰り広げました。長徳二年(九九六年)には長徳の変が起こり、伊周が大宰権帥に左遷され、道長の権勢が確立されます。伊周は左遷の命令に対し、当初は行方をくらませて抵抗しました。その間に北野天満宮に参拝して冤罪を訴えました。
一条天皇は寛弘元年(一〇〇四年)に北野天満宮に行幸しました。この背景には対立する見方があります。
第一は道長の発案によるデモンストレーションとします。道長の祖父師輔は北野天満宮を信仰しており、その信仰心を継承して、天皇を動かして行幸させたとします。
第二に道長に反発する一条天皇の発案とします。伊周や定子の中関白家の側に立つ気持ちから冤罪被害者の道真を祀る北野天満宮に行幸したとします。
室町時代の長禄元年(一四五七年)に扇谷上杉氏の上杉持朝は重臣の太田道真・太田道灌父子に川越城を築城させ、自らの居城としました。城の縄張りには三芳野神社も含まれ、天神曲輪と呼ばれました。この時に道灌が三芳野神社に天神を勧請したとする説もあります。
後に道灌は名声を恐れた主君によって謀反の冤罪で暗殺されました。冤罪で左遷された菅原道真に重なります。道灌は暗殺時に「当方滅亡」(自分を失えば扇谷上杉家は弱体化して滅亡する)と予言しました。これも死後に怨霊と恐れられた菅原道真に重なります。
江戸時代になっても三芳野神社は川越城の曲輪の中にありました。このために気軽に人々がお参りできる神社ではありませんでした。「通りゃんせ」の「御用のないもの通しゃせぬ」の通りです。それでも「この子の七つの御祝いに、御札を納めに参ります」のように川越藩は全面禁止しておらず、人々の信仰に応えていました。これは現代のイスラエルがエルサレム旧市街のイスラム教の聖地アルアクサ・モスクを侵害し、パレスチナ人や世界中のムスリムから批判されている状況とは異なります。
とはいえ川越藩は密偵が城内の機密情報等を盗むことを防ぐために帰りの参拝者を厳重に調べました。それが「行きはよいよい帰りはこわい」です。「通りゃんせ」は異世界への神隠しのようなイメージを抱く向きもあるでしょう。異世界に行くことはできても戻ってくることは難しいと。「通りゃんせ」は想像よりも世俗的な内容でした。
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