最近、話題のエーリッヒ・フロムの本の話ではないです。
皆さま最近、誰かを愛しておりますでしょうか?
Google先生で検索をしてみると、
そのものの価値を認め、強く引きつけられる気持ち。
上記のように述べられております。
そもそも抽象的なものに、更に抽象的な説明なので正直良く分からないので少し深堀りして考えてみたいと思います。
愛には自身が相手に向ける能動的な「愛する」と、相手から受ける受動的な「愛される」の2種類があると思います。
ここで、考えてみたいのは先ほど紹介した、愛という言葉の定義は自身の感情を指しており、相手から向けられる愛はその人の感情から発せられるものであり、私本人にはどういった感情かは分かり得ません。
つまり愛とは双方向で形成されるものではなく、あくまで自分本位のものなのです。愛されたいと願うのは自由ですが、願うだけ無駄で他人の感情を自分の意のままに操る事は出来ない、無理ゲーなのです。
それよりも自分の内側にある気持ち、特定の誰かを愛せている事に感謝を向けると、結果がどうであれ豊かな日々を遅れると思います。
良く契約と称される事もある結婚ですが、結婚してるからといって必ず愛し愛されているか?と問われると答えに困る人も多いのではないでしょうか。
結婚に囚われる人が何故こんなにも多いのかというと、やはり安心したいという事が一番だと思います。
愛とは非常に抽象的なものだからこそ、結婚という枠組みにあてはめるのではなく、自由にお互いが愛しあっていれば、何かに称する必要はどこにも無く、一心同体とかソウルメイトだとか自分たちが好きなように関係性をラベリングすれば良いのです。
日本は教育にしろ社会構造にしろ、量産システムになっています。つまり皆同じような価値観を持つのが素晴らしいという事です。
先進国で同性婚や夫婦別姓すらも認められていない先進国は最早、日本くらいのものでは無いでしょうか。しかも宗教的な制約は特に持たないにも関わらず、明治時代から全く進歩していないのです。
江戸時代には2人に1人が離婚し、名前も自由に変えられた。織田信長も同性愛者だったように自由で多様な社会だったのに、工業社会に突入した途端、枠組みで縛るような社会になってしまった。もっと選択肢の多い多様な社会になれば良いと願わずにはいられません。
愛とは自分から発せられる感情なので、世界中に住む76億通りの愛し方があります。
つまり定義は無いし正解も無いと考えます。
以前、テレビを見ていた時に夫は無職で奥さんが働かれている家族がありました。
子供の世話や食事、掃除などは男性側の仕事。外に出て働くのは女性側の仕事と一般的な夫婦の価値観とは違った役割を担っていました。
そこでインタビューを受けた最後にレポーターが奥様にこの生活は幸せですか?
と聞きました。
奥様:はい、今が一番幸せです。得意な方が得意なことをしている、この生活が良いんです。
私は愛の形とは、相手の気持ちも枠組みや他者の評価などは介在しない、
言葉に表せないけど相手を求める純粋な気持ちを指すと思います。
Google先生の定義と大して変わらないですね。さすがGoogle。
虐待を受けている子供がそれでも親を愛しているケースは多々あります。
人間も動物なので愛するということも本能的におこなっている可能性もあります。
正解も形も無いものだからこそ、他人から評価されるものでも社会から定義されるものでも無いと思っています。
だからこそ、我々は愛することが幸せで楽しいのです。
自分の気持ちを大切に愛のある日々を送りたいし送って欲しいと思います。