前の記事で(論点①)とした、以下の話を少し掘り下げたい。
これらのメディアが、存在感や存在価値、社会的影響力といったものをけっこう強く持っていたので、「マス」メディアと呼ばれていたのだと思う(歴史的文脈はいったん抜きにして、結果論で考える)。で、ぼくはいま、この存在感、存在価値、社会的影響力は、日に日に小さくなっていると声を大にして言いたい。もちろん、記者として働いた経験も元に考えていることだ。
「これらのメディア」というのは、「厳密に言うと、テレビはNHKと5つのキー局。新聞は読売、朝日、毎日、産経、日経、東京あたり、それに共同通信と時事通信」と述べた。
さて、なぜこれらが弱っているのか。
やはり最も大きな理由は、報道のクオリティが下がったことだと思う。それは二つの側面から語ることができる。
インターネットの発達により、批判を受ける機会が増えた。「マスゴミ」という言葉がそれを象徴していると言える。誤報が暴かれるなど良い意味での批判ももちろんある。しかし、マスメディアは既得権益層だ、というような主張から、悪質な批判に終始する人も少なからずいる。悪質な批判のほうがクローズアップされやすいので、悪いイメージばかりが広がるようになった。
また、記者の仕事は過酷というイメージも、かなり持たれている。働けるだけ働こう、という時代ではない。時間を効率的に使い、勤務の時間をそこまで長くせずに十分な成果を上げる働き方が、人気を集めている。時代錯誤な働き方がイメージされる報道の仕事は、現代の若い人が志さなくなっている。
以上の2点により、優秀な人材が報道業界に集まりにくくなっている。就職先人気ランキングに載ることもほとんどない。記事を書く仕事は、業界全体的に属人的な傾向があるため、人材の劣化がそのまま製品の品質劣化に直結する例が多い。これが絶対的な意味でのクオリティ低下だ。
次に、相対的な意味での劣化について。
「1億総メディア」とかいう言葉があった。好意的に解釈すれば、先ほど述べた、インターネット上でのさまざまな批判が旧来のマスメディアのように影響力を持ってしまっているのでは、と警鐘を鳴らしたと言える。個人レベルで言説を流し続けるTwitterだけでなく、「新しいメディア」を称してあたかも真実のようにフェイクニュースを発信する人物(団体?)も現れている。
インターネット上の情報流通全体を捉えようとしても、カオスとしか表現のしようがない。間違った情報を信じるのはリテラシーがないからだと指摘する偉い人もいるが、そんなことは言っていられないくらいカオスな世界が目の前に広がっているというのが真実だ。どんな人でも、自分にとって魅力的な情報が必ずある。しかも大抵の場合は、マスメディアによる情報よりも詳しく、最適化されているように見える。
このように、ネット上で得られる情報と比較すると、マスメディアが流す情報は物足りない印象を与える。これが相対的劣化のからくりだ。
こうした二つの側面から、報道というメディアは弱っていると言える。
もちろん、戸配という日本の新聞に独特の販売方法や、日本経済が抱える終身雇用という慣習を背景とした人材配置、キー局とNHKの関係性など、構造的な問題も大きく作用するのは間違いない。しかし、NHKを除けば、純粋な民間企業ともいえるわけで、クオリティを死守し向上させていかなければならないのは当然のこと。その努力を怠ったツケが来ているというだけだ。