神のいない国、日本。
私はアメリカにいる時、本当に毎日が楽しかった。異国の地とは思えない安心感があった。帰国してからは、あの安心感が失われた。なぜか。それは、教会の存在。日々の生活は日本もアメリカも大差なかったが、週末が全然ちがう。
たとえば、塾を経営していると
「成績が上がらなければ授業料をお返しします」
というビジネスをされる方がみえる。
これがアメリカなら、必ず問題になる。自分の同級生を思い出してほしい。塾に行けば、みんな成績が上がりましたか。上がる子もいれば、現状維持の子もいれば、下がった子もいたはず。では、半数の子が「授業料を返せ!」と言ってきたらどうなるか。
その塾は倒産します。
教会では「正直」であることが重視されるので、
「成績が上がるって、何を比較して決めるのですか?」
と情報公開が求められる。何パーセントの人が授業料の返金を受けたのかも公開を求められる。拒めば、キャッチコピーが嘘だと非難される。隠ぺいは神様の道から外れた行為なので受け入れられない。そういう共通認識がある。
一方、日本ではイジメで生徒が自殺する事件が多発しているが、学校は常に隠蔽を図ることで知られている。裁判になっても、決して校長や教頭などの管理職は非を認めない。第三者委員会や弁護士、裁判所の判決が出てようやく認めるという流れが定着している。
これは、隠蔽が神様の道から外れた行為だという共通認識がないからだと思う。
中国、韓国、北朝鮮の民度を笑う日本人は多い。曰く、
「情に流されて叫んでいるだけ」
しかし、日本も欧米各国から似たような目で見られていることが多い。
「空気を読まされ、周囲の目を気にして同調しているだけ」
その責任の大半は、学校にある。
思春期の感受性が豊かな時期に、日本の学校は服装も、履く靴も、髪型も、授業進度も、何もかも自分で決められない。全て学校が決めて、生徒はその指示どおりに動くロボット状態に置かれる。これでは、優秀な子が日本を脱出するしかないし、ついていけない子は落ちこぼれるしかない。口では「多様性の尊重」と言いながら、決して多様性を尊重しようとしない教育が行われている。
頭脳の流出が続いているのは当然の帰結であり、人材を失った日本の経済が低迷し続けるのも当たり前のこと。とりあえず、
1,ブラック校則はすべて廃止
2,部活の強制は自由化する
3,クラスは解体。授業毎に移動する。
この3点は、立法をしなくても即日実行可能だ。
しかし、聖書に基づいた憲法や法律の存在しない日本では議論百出となり自らは改革ができそうにない。最初にキリスト教がやってきた時、日本は戦国時代だった。織田信長は西洋文明の優れた点をすぐに見抜いて日本を改革しようとした。そして、本能寺で殺された。
二度目のチャンスは明治維新だった。文明開化の掛け声とともに、西洋文明を学ぼうと必死になった。しかし、和魂洋才ということで技術のみの薄っぺらい導入でしかなかった。そして、最後のチャンスが第二次世界大戦の敗戦であった。
この時に、日本人は真剣に
「なぜ、西洋から市民革命や産業革命が起こったのだ?」
と、根本的な理由を考えるべきだった。そして、
「日本はいつも西洋から学んでばかりで、なぜ自ら改革ができないのだ?」
と、自問すべきだった。
クリスチャンは、神の前では万人が平等な存在だと考える。いや、信じる。だから、基本的人権の「平等権」という思想が生まれてくる。しかし、信仰のない日本文化からペリーが来るまで身分社会が続いていたわけだ。自分自身で、自分の国を変えることができない。
そして、現代。チャンスだと思う。インターネットで世界中がつながり、国際貿易が盛んになり外国に出かける人が桁違いに増えている。ただ、帰国子女が完璧な英語を身に着けても学校では本格的な発音をするとイジメに合う。それは、数学も同じで微分や積分の問題を解こうとすると中学教師では解けないし
「勝手に先に進むんじゃない!」
と、意味不明の叱責を受けるのが日本の学校なのだ。
本当に、どうしたらいいのか分からない。