戦争、殺人の根源
安倍元首相が暗殺されてしまった。戦争を止めないプーチンから弔電が届いたそうだ。どうして、人は人を殺し続けるのだろう?多くの人が平和を求めて研究し、論文を発表し、運動を繰り返し、組織を作る。
しかし、何千年経っても人殺しは止まらない。聖書にある最初の殺人者は「カインとアベル」の物語に書かれています。
エデンの園を追い出されたアダムとエバですが、その後この夫婦にはカインとアベルという2人の息子が生まれます。カインは農業を営む者になり、アベルは羊飼いになりました。あるとき2人は、それぞれ神にささげ物をしますが、カインが持っていった畑の作物というささげ物は神に受け入れられず、アベルが持っていった羊の初子は受け入れられました。
この箇所は、神が好むささげ物とそうではないささげ物があるというふうにも読めてしまいそうですが、聖書全体を読むと、神はいつでも人がささげ物をするときの心の在り方を問題にしています。悔い改めをすることなしに動物のささげ物を持ってくる民に向かっては、「わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に飽きた」(イザヤ1・11)と言っていますし、イエスは、貧しい未亡人が少額の献金をする姿を見て、「この貧しいやもめは、……だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを……投げ入れたのですから」(マルコ12・43〜44)と言っています。
この箇所でも、アベルのささげ物だけが受け入れられたのを見て怒るカインに、神は「あなたが良いことをしているのなら、受け入れられる」(創世記4・7)と諭しています。カインのささげ物のどこが具体的に悪かったのかはわかりませんが、ささげ方に問題があったことは明らかです。
殺人に至る根源には憎しみがあります。
私は塾を経営するクリスチャンですが、仏教や神道を信じる人と共存は出来ます。ただし、それは相手が信教の自由という基本的人権を守ってくれる場合に限ります。ここ三重県に住んで分かったのは「香典をお願いします」「神社の寄付金をお願いします」と当たり前のように言われること。
それで、自治会の在り方を人権尊重に変えられないか尋ねてみたら「自治会を抜けたらゴミ出しが出来ない」と恫喝されました。それは困るので、市役所に相談したら「ゴミ出しは自治会が管理しているので市役所の仕事ではない」とのこと。
これでは仲良くできないので「組」を抜けさせてもらいました。
このような怒りは学生時代から感じていました。日本の学校は「クラス」という空間に朝から晩まで押し込めます。そして、強い同調圧力で同じ服、同じ靴、同じ髪型、同じ問題集、同じ学習進度を強制してきます。教師は調査書で恫喝してくるので逆らえません。
このような制度の中で私は次第に怒りを蓄積していました。
それで、中学生のある時に自発的にクラブ活動は止めました。もちろん、同級生や担任から圧力がかかりました。「みんなと同じ行動をしろ!」という訳です。中学生の頃から、大人になるまでそういう人には近づかないようにしてきました。
「どうしても許せないから殺してやる!」
という殺人も、大規模な戦争も実はこうした日常生活の中にどこにでもある「他人を思いやる力」の欠如から始まるように思う。
そのことを悟った人たちは基本的人権を尊重しなければならないとの思いを強くしたわけです。独裁専制国家のような「強制」で成り立つ国家に暗殺や反乱が多いのは偶然ではありません。自由は殺人や戦争を避けるために尊重しなければなりません。
しかし、日本は法律上は自由を尊重すると書いてあっても同調圧力という強制があるため怒りを蓄積する人が多い社会です。生徒を見ていると、怒りを蓄積しているのは私だけではなく生徒たちも同様です。
残念ですが、これからも悲惨な事件は減らないように思います。