13
スラムの朝は、いつものように薄暗い不安を孕んで始まる。夜明け前の冷たい風がスラムの狭い路地を吹き抜け、街全体を凍てつかせる。何もかもが普通の朝のように見えたが、空気が妙に張り詰めている。
昨日、刑務所から戻ってくるとカレンは部屋から消えていた。テーブルの上には用意された食事がそのままになっていた。それ以外、部屋の様子は何ひとつ変わりなく、冷め切った料理が手付かずで残っているだけだった。それがなければおそらくカレンという存在そのものがオレの中で抜け落ちてただろう。夢か、悪い妄想にでも取り憑かれた哀れな男だと笑うだけで済んだ。
外の方では野良犬が吠えている。
野良犬が街の中央にある枯れた噴水の周りを徘徊している。犬は地面をくんくんと嗅ぎ回り、何かを探しているように動き続ける。すると、噴水のすぐそばに無造作に放り投げられた大きなビニール袋の塊に目を止める。犬は一瞬ためらうように腰を浮かしたが、それから袋に近づき前足で軽くつつく。袋はずるりと少し転がり、ガサガサと静かな朝の中に響く。
犬はその袋に興味を示し、前足で引っかきながら、何度か咥えては地面に落とし、また咥え上げる。そのたびに袋の中身がごろごろと重そうに動く。犬の牙が袋の端を貫いた途端にパチンと音を立ててビニールが裂ける。裂け目からは真っ赤な液体がじわりと染み出し、地面に滴り落ちる。犬はそれに気づき、鼻先で嗅いだ後にでべろりと舐める。
通りがかった男が犬の動きに気づき、足を止める。男は少し顔をしかめながら、何気なく袋の方へと視線を移す。男の目が袋の中身を捉えた瞬間、青ざめたかと思うと突然大きな悲鳴を上げた。
その悲鳴は朝の静けさを切り裂き、スラム全体に響き渡る。野良犬はその声に体をびくりと跳ね上げ、路地裏に消えていった。男は後ずさりしながら、ついには腰を抜かしその場で尻餅をつく。その声に引き寄せられるように、辺りの住居の窓から顔を覗かせる者、外に出てくる者たちでいっぱいになった。やがて袋を中心にして円ができる。誰もが血を吐き出すビニール袋を見つめ、息を呑んだ。円の中から男が出ててきて、ビニール袋をそっと剥ぎ取ると、そこには体をなくし真っ赤に染まった頭部が転がっていた。
14
「イーサン、やべえ、始まっちまったぞ!」
ヴィックはそう叫びながら、オレの家のドアを勢いよく叩き開ける。息を切らして肩が大きく上下している。オレは焦ることなく冷静を装ったまま振り返った。
「どうしたんだ、ヴィック?」
ヴィックは一瞬、顔をこわばらせた。息を整えながらオレの目を避けるようにして、口を開く。
「あ、ああ……ディアゴの首だ。街の真ん中に晒されてる。街中は大騒ぎさ」
カレンがいねえんだ、ヴィックの言葉を遮るように、オレは言った。ヴィックは一瞬、視線を床に落とす。気まずそうに黙り込んでいるのは、何かを隠している証拠だった。
「ヴィック、お前、何か知ってるのか?」
ヴィックはしばらく黙っていたが、大きくため息をついてからようやく口を開いた。
「昨日、お前がサツに捕まったこと、伝えに来た……」
「なんのために?」
ヴィックは重い口調で、目を逸らしながら続けた。
「イーサン、お前もジェイクから聞いたんだろ? あの女のことについてよお」
オレは眉をひそめ、ヴィックをじっと見つめた。
「何を?」
「あの女が普通じゃないってことさ。リキッダム・カルテルと深く関わってるってな」
「ジェイクの言葉を信じろってのか? サツの情報なんて、当てにならねえだろ」
オレは拳を握りしめ、声を抑えながら言った。わかるさ、とヴィックは肩をすくめる。
「今回ばかりはわけが違う。ジェイクの情報は確かだ。お前があの女を匿ってからなんだよ、見かけねえやつらが闘技場を見張るように現れた。そいつらの素性も掴んでる」
オレは一瞬言葉を失い、頭の中で情報を整理しようとした。
「なあ、ヴィック。サツに売ったのか?」
少し黙り込んだ後、ああ、そうだよ、と言ってヴィックは申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「でもな、お前を守るためなんだよ! お前があの女に惚れこんじまったのは仕方ねえ。でもな、一緒にいていいような女じゃねえんだよ!」
「俺を撃たせたのもか?」
オレは怒りを抑えきれず声を荒げたが、違う! とヴィックは慌てて否定した。
「あれは想定外だった、信じてくれ! ジェイクの野郎と手筈を組んだのは確かだ……だからといってジェイクに引き渡すのは違うと思ったんだよ。オレはただ、この街から消えてくれたらそれでよかった……ジェイクの野郎、お前に何て言ったんだ?」
「カレンを引き渡せ、と」
オレは冷静さを取り戻そうと深呼吸をして、続けた。
「お前が知ってることを全部話せ。カレンのこと、リキッダム・カルテルのこと、全部だ。何か隠すようだったら……オレだってお前のこと信じられるか分からねえ」
わかったよ……と言って、ヴィックは周囲を警戒するように目を配りながら、声を潜めて話し始めた。
「ジェイクによると、あの女はリキッダム・カルテルのボスの愛人らしい。愛人といっても何人もいるだろうからな、重要なのはそこじゃねえ。なんで逃げ出したかだ。あの女はカルテルが取引してた『カトレア』をちょろまかしたんだ。『カトレア』はカルテルが取引しているドラッグの中でも一級品だ。愛人ごときが使っていいような代物じゃねえ。それを追ってるんだよ。あの女がこの街をうろつく限り、カルテルの連中が流れ込んでくるのも時間の問題だ。匿ってるなんて知られたそれこそ何されるかなんて想像もできねえ。お前がどうこうできる問題じゃないんだよ」
「信じられるかそん馬鹿な話! お前にカレンの何が分かるっていうんだよ!」
お前は、分かってるのか? 妙に落ち着いた様子でヴィックは真剣な眼差しでオレを見た。
「お前はその女の、カレンってやつのことどれだけ分かってる?」
その言葉に何も言い返せなかった。カレンは結局、オレに大事なことは何も話してはくれなかった。オレは窓の外に目をやる、スラムはざわついてた。ああ、そうだ……と思い出す。ディアゴのやつ、死んじまったんだな、と。
ヴィック! オレは決意を込めて声を張った。
「俺はカレンを見つけ出す。それで、彼女から直接話を聞く。それまでは何も信じない」
ヴィックは諦めたような表情を浮かべ、分かった、と言った。
「それで気が済むならそうしろ。オレはもう何も言わねえ。だがな、お前がどうであれ、戦争は始まっちまったんだ。それだけは覚悟しとけ」
オレはうなずき、外へ出る準備を始めた。
15
ディアゴが死んでから街は慌ただしくなった。怯える住人たちの顔、空に響く銃声、短く途切れる叫び声。いつものスラムの喧騒とは明らかに違う空気が漂っていた。
そんな中、オレはカレンの姿を必死に探し続けていた。彼女が姿を消してから、もう何週間も経っていた。運び屋の仕事を続けながら、スラムの隅々まで探し回ったがカレンに関する情報は一切出てこない。まるで彼女の存在自体が消え去ってしまったかのようだった。
運び屋の仕事は、カレンを探すのにちょうどよかった。様々な場所を行き来し、情報を探るにはちょうどよかった。だが、カレンに関する噂すら聞こえてこない。それどころか、街の関心は完全に別の方向に向いている気さえした。
オレは最低限の仕事をこなしながら、街の変化を肌で感じていた。通りを行く連中の顔つきが変わり、特にグレイコブラの連中の動きが頻繁になった。グレイコブラはレッドスコルピオンの傘下についている集団だ。
ある夜、狭い路地を歩いていると、目の前に二人の男が立ちふさがった。灰色のコブラのワッペンをつけたツナギを着ている——グレイコブラの連中だ。
「よう、イーサン。最近、お前の動きが多いって噂だぜ。何を嗅ぎまわってる?」
オレは無表情を保ちながら答えた。
「仕事中なんだ、お前らと話すことなんか何もないぞ」
男は鼻を鳴らし、意味ありげな目つきでオレを見た。
「お前、ブロークンナイツとはどうなんだ?」
オレは一瞬考えてから答えた。
「オレには関係ねえよ。奴らと関わる理由もない」
そうかい、男は薄く笑った。
「でもお前、ジャックの野郎とは仲良くやってるじゃねーか。あいつはブロークンナイツの一味だろ」
「ジャックはオレに都合のいい仕事を押し付けてるだけだよ。オレもそれで金になってるから受けてるだけだ」
「ならいいが……頭がやられたんだ。オレたちも黙っちゃいねえ。お前も自分の立場を見誤るようだと容赦はしねえ」
吐き捨てるように言葉を残し、男たちは去っていった。
次の日には、今度は別のギャング連中と遭遇した。ブラックパンサーズだった。こいつらはブロークンナイツの傘下に成り下がった連中だ。リーダーである雌ヒョウのメリサが、アルヴァロに惚れ込んだというのが理由だった。
「イーサン、久しぶりだな」
女にしてはドスの利いた低い声で呼びかけてきたのは、リーダーのメリサだ。なんだよ、どいつもこいつも……ひとり言のように呟くとメリサは怪訝な顔を見せたが、何の用だよ、とその顔に吐き捨てた。
「なんだあ? つれねえなあ」
メリサは冗談みたいに長いまつ毛をひらひらさせて笑う。
「ディアゴのこと、あんたも知ってるでしょ?」
「ああ、だったらなんだ? オレには関係のないことさ」
まあ聞けよ、とメリサはオレの言葉にはお構いなしに続ける。
「ブロークンナイツの仕業だという噂が立っちまってよお、こっちは困ってるんだよ」
違うのか? というオレの質問には答えずに首だけ振って続ける。
「そりゃいずれ狙うつもりでいたさ。あたしらもそのために動いてた。でもね、それにしては早すぎるんだよ。予定になかったことさ。アルヴァロがそんなヘマするとも思えないだろ?」
アルヴァロ、ね……と呟きながらオレはアルヴァロの顔を思い出していたが、何を考えてるかも分からないやつだ。メリサがそう言ったところで、腑に落ちるとこは何ひとつない。
「グレイコブラが仇とばかりに見境なく襲ってきやがる。決めつけてるんだ、アルヴァロがやったって。あたしらも、うかうかしてられない」
オレは眉をひそめた。
「つまり、お前らとグレイコブラが代理戦争でも始めるってのか?」
メリサはニヤリと笑った。
「そう受け取ってもらっても構わないよ。これがスラムのルール。弱ければ死ぬだけ、シンプルよ」
あたしね、このシンプルさが好きなの、とウィンクする。アルヴァロのことはもっと好きよ、だから邪魔しないでね、そういって軽快に去っていく。オレがメリサの姿を見たのは、それっきりになった。