こんにちわ、@まことです。
ALISに記事を載せようと思ってから結構時間が経ってしまいました。
ALISのβ版がリリースされましたね、ALISは私が初めて参加したICOなのでプロジェクトが進んでいるのが特にうれしいです。
それでは本題行きましょう。
先日話題になった仮想通貨にジョージソロスが参戦するというニュースが話題になっていたので彼がどんな人なのかまとめました。
1930年8月20日ジョージ・ソロスはハンガリーのブダペストに生まれました。父は弁護士で典型的なユダヤ人家庭でしたが彼は無神論者であるとされています。
小学校に入学したソロスは特別優秀ではなかったといわれています。成績はクラスの真ん中くらいだったらしいです。しかしキャピタリというゲームにはめっぽう強かったそうです。途中からルールを変え株取引のようにしていたそうです。
やはりこの時から才能があったのでしょうか。
1943年、彼が13歳の時にホロコーストによる殺戮が始まりました。彼の父親が政府の役人を買収してソロスをキリスト教徒の息子に仕立て上げ偽の父親とナチスの追跡をかわしていったが、偽の父親の仕事はユダヤ人の財産を奪うことだったので複雑であったと思いますが父の教えである
"生き残るためには手段を選ぶな"
という言葉で彼は生き残りました。
実は父のティヴォドア・ソロスは第一次世界大戦でロシアの捕虜になり、ロシアの捕虜収容所から極寒の中、脱走し生き残った2割の中の一人だそうです。
そして1945年彼にハンガリーのハイパーインフレーション時に初めて通貨取引をしたといわれています。
その後1946年に共産主義になった祖国(ハンガリー)からイギリスに渡り、翌年にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに入学します。自分の学費は自分で様々なアルバイトをして集めていたようです。
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに入学したソロスは経済学を学びます。
また彼は将来は哲学者になろうと漠然と考えていましたが、成績が優秀ではなかったようで哲学者になることはできませんでした。
そのためロンドン・スクール・オブ・エコノミクス卒業後はロンドン、シティにある投資銀行で金と株式の裁定取引をするトレーダーになったようですがここでのソロスは特別優秀というわけではありませんでした。
1956年にソロスはアメリカニューヨークに渡ります。理由は哲学者として自立するためやシティでのトレーダーが物足りなくなったことだといわれています。
ウォール街の証券会社に就職しヨーロッパの証券について助言する立場となりました。英語以外に複数の言語を話すことができるソロスはシティでの経験を活かし成功していきました。
1967年にはファースト・イーグル・ファンドとダブル・イーグル・ファンドをを自己資金わずか25万ドルで立ち上げました。当時ソロスはヨーロッパの幅広い金融状況の知識と人脈が強みでしたのでヨーロッパの富豪たちはすぐに600万ドルをファンドの資金にさせました。
これがヘッジファンドの始まりともいわれているようです。
1969年にソロスはジム・ロジャースとソロスファンドを立ち上げました。後にウォール街最強のパートナーともいわれる二人と称される圧倒的なパフォーマンスを見せていきます。
1980年に彼らが分かれるまでにこのファンドは一度も損失を出していません。50%を超える利益を出すことも複数回あり驚異的なことがわかります。
ジム・ロジャースと別れた後にもウォール街の名だたる名将と組みましたがあまりうまく行かなかったようです。
日本のバブルのきっかけともなったプラザ合意でソロスは大儲けしました。
1980年代前半、アメリカ経済はレーガン政権の大規模な減税で財政赤字かつ20%もの高金利で投機マネーが集中しドル高となり輸出の減少、輸入の増大を招き貿易収支も赤字となっていました。
ソロスは
"実体の伴わない値上がりはいつか適正価格に戻る"
と自身の思想からプラザ合意前からドル売り円、マルク買いをとっていましたが最初は損をしていました。
1985年9月22日過度なドル高に危機を覚えたアメリカは日本、イギリス、西ドイツ、フランスのG5の大蔵大臣(アメリカは財務長官)と中央銀行総裁をニューヨークのプラザホテルに集めました。
そこで話し合われたのは
基軸通貨であるドルに対して、参加各国の通貨を一律10〜12%幅で切り上げ、そのための方法として参加各国は外国為替市場で協調介入をおこなう
といった内容で、アメリカが弱ることは世界経済が不安定になることでもあるので各国同意したとされているようです。アメリカの貿易赤字の大半が日本が大半であったため当時は日本車が燃やされたりしていてアメリカさんと仲良くしたい日本が合意したのも自然なことでしょう。
会議の内容は事前に決まっていたので会議自体は20分程しかかかっていないようでこの20分で世界経済がガラッと動いたことを考えると恐ろしいですね。
翌日9月23日にドル円は1ドル235円からおよそ20円も値を下げました。これを待っていたソロスはこの一日だけで3000万ドルの利益を上げたようです。
ソロスはこの日だけでなく一気に円、マルクを買い漁りこの年の8月から12月までの4か月間で2億3000万ドルもの莫大な利益を上げました。
プラザ合意の2年後には1ドル150円を割りプラザ合意前の半分ほどとなりました。
ちなみに日本のバブルはこの円高による不況を恐れた政府がこの一年で金利を4回も下げたことで市場にあふれた資産が行き場を失い不動産や株などに回されてそれぞれの価格が高騰し起こったとされています。
ジョージ・ソロスを語る上でこの話は必須ですね。イングランド銀行をつぶした男として語られることが多いのはポンド危機に関係あります。
1990年ごろイギリスは年率9%ものインフレに苦しんでいました。そこで公定歩合を15%に引き上げたところ景気が悪化しイギリスはインフレと景気悪化の苦しい状況でした。
しかし、このような状況でイギリスはERM(欧州相場メカニズム)とEMS(欧州通貨制度)により通貨レートを事実上固定する(正確には±2.25%の幅、片方がイタリア/リラの場合は±6%の幅に抑える)ことになりました。
当時のヨーロッパでは西ドイツが東ドイツを吸収する形で統一しました。そこで旧西ドイツのものが自由に買えるといった思考で旧東ドイツの人々が様々なものを買い経済が良くなっていきました。(統一特需)
また旧西ドイツが旧東ドイツを積極的に支援することで財政支出が大幅に増加し、インフレ率が高まっていきました。
ドイツは戦後にハイパーインフレを経験している国なのでインフレに対して大きな恐怖を感じることもあり、金利が上昇していきました。
一方、イギリスはERMに留まるために金利を上げる必要がありましたが、当時のイギリスの実質GDP成長率は1%にも満たない非常に小さいものでした。
10%を超える金利に1%にも満たない実質GDP成長率は明らかにおかしいと気づいたのがジョージソロス率いる投資ファンドでした。
1992年9月、プラザ合意の時と同じ様に
"実体の伴わない値上がりはいつか適正価格に戻る"
という思想からソロスはポンド売りマルク、フラン買いのポジションを取りました。
(正確にはチーフトレーダーであったドラッケンミラーからの提案でソロスはそれにGOサインを出し提案よりも多くの額を持つように指示した)
1992年9月15日ポンド/マルクは変動制限ライン(±2.25%)の下限値を超えました。
翌1992年9月16日にはイギリス当局は金利を10%から12%に上げ、イングランド銀行は150億ポンドを市場に投入し買い支えようとしました。
しかし、この時にはほかのファンドなどからもポンドを大量に売られ、ポンド安は止まりませんでした。
午後2時15分には苦肉の策ともいえる1日に2回目の金利引き上げ(12%から15%)を行いましたが、これでポンド売りがやむわけもなく、この日の夜にはイギリスはERMからの離脱を発表しました。
この1992年9月16日がブラックウェンズデーと呼ばれています。
そして翌日から正式にERMを離脱し、ポンドは相場変動制に変わりました。
ブラックウェンズデーと言われてる一方、金利が自由に下げられるようになりイギリス経済が好転したためホワイトウェンズデーと呼ぶ人もいます。
このポンド危機でソロスは100億ドルものポンドを売り、9億5800万ドル(日本円で1000億円を超える額!)の利益を出しました。
さらにポンド以外の利益を合わせると20億ドルにもなるといわれています。
またこの後に起こったアジア通貨危機でも多くの利益を出したといわれています。
現在ソロスは87歳です。2011年に一度引退をしたのですが2016年にトレーディングを再開しました。そして現在も現役で活躍しています。
仮想通貨に関していえば2018年1月に
仮想通貨はバブルだ
と発言して話題になりました。
否定的な意見でしたが、ソロスの率いる投資ファンドは4月にはビットコインを支払い手段として受け付けた最初の大手企業であるオーバーストックドットコムの第3筆頭株主となりました。
仮想通貨絡みの投資をしたということで仮想通貨のトレードにも参入するのではないかと推測されていますね。
もし参入するのならバブルだと発言してから25%以上も下落しています。最高値から考えると60%以上も下落しているので売りのイメージがあるソロスですが買いで入るかもしれませんね。
ジョージソロスやプラザ合意、ポンド危機について少しは知れたのではないでしょうか?
個人的にも調べてて知って面白く興味深かったです。
好評であればほかの人、出来事についても書こうかなと思います。
それでは今日はこの辺で!