こんもりとした丘の上に建っていました。古墳の上に建てられた神社のようです。
此地は古くは武蔵國入間郡三芳野の里大塚村と言ひ古墳を氏神塚として尊崇して来たが嘉元二年(1302)の頃氏神塚の下の川の深い渕の中より漁師の手綱に再三掛った石を氏神塚に安置し当時中里郷の前にあった広伝寺のすすめによって石上明神とした。
拝殿正面に掛る「石上宮」の神号額は全徳寺第七世國水伝春が明和四年(1767)揮毫し篆刻奉納したもの。文化六年(1806)坂戸宿棟梁高山兵部藤原師美の手によって拝殿が作られた。何時の頃からか子授安産の神として尊崇され春秋の祭典には近隣より参詣の人々群をなし俗に「押上様」と云われる程栄えたと云ふ。
http://ishigami-jinja.jp/index.html様より
入西のビャクシン
スゴイ様相でした!!!捻じれ具合がすごいですね。樹齢650年くらいのようです。大瀬崎のビャクシンに逢いたくなりました。2016.2
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当社は七世紀初頭に当地の土豪を埋葬したものと思われる帆立貝式の古墳上に鎮座しており、社名の「土屋」は、古墳内に石室があることによる。石室は本殿真下にあり中に石像がある。社の創建ついては、村人が昔からある古木に囲まれた塚に対して畏敬の念を感じ、村鎮守として小祠を建てたのに始まると思われるが、そのほかにも、本山派修験山本坊配下大蔵院が当社の別当として、信仰的にも影響を与えていると考えられる。これは本社の土屋権現社よりも末社浅間社の信仰に端的に表れ、塚上にある社を浅間山に見立てて盛んに祈祷を行った。http://kamimeguri.web.fc2.com/sakadotutiyajinjya.html様より。
拝殿背後の白い巨木・・・・・!!!すごいインパクトです。
本殿と神木スギ
塚上にある社を浅間山に見立てて盛んに祈祷・・・・との事ですから、富士山ではなく、「浅間山」の信仰の「浅間神社」なのでしょうね。
2004年の浅間山噴火時、火山灰は、東京都内のほぼ全域と神奈川県の川崎、横須賀、厚木市、埼玉県では新座、行田、坂戸市、千葉県でも千葉、佐倉、柏、勝浦市で新たに確認されたそうです。昔から頻繁に浅間山は噴火していますし、この辺りから浅間山も望めそうなので、信仰対象になっても不思議ではありませんね。ちなみにこの辺りから富士山も綺麗に見えますが^^
いや~白い幹のボコボコの感じが、縄文杉を連想させましたねー。陽が当たっていたから、なおさら白く迫力がありました。樹齢は千年を超えているようです。
樹高28m、幹囲は8.5mのようです。ちなみに縄文杉は樹高30m、幹周は16.1m。ひょえ~!ってことは、この杉の4本分位の太さっだっだってこと??
いつも近くを通ってたのですが、こんな古墳の上に建っている神社だとは思いもよりませんでした。神社は、ほんとに境内に入ってみないと解りませんね。かなりの老木ですが命をつないでいって欲しいです。2017.1
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ここも土屋神社と同じように古墳の上に神社があります。
青空が綺麗で・・・冬!って感じでしたよ。
古墳の上に建っているので立体感、高低差があって、とても美しく感じました。古墳は直径50メートル、高さ4.2メートルのようです。
ご祭神 ・白山比咩命(しろやまひめのみこと)
神社の記録によれば、第十崇神天皇の時代に伝説上の人物と言われる四道将軍の一人 建渟河別命が勝呂神社古墳に葬られていると伝わっています。寛和二年(九八六年)、古墳の上に北陸鎮護の神として知られる加賀一宮白山比咩神社の御分霊が勧請されました。
その後、武蔵七党の村山党に属した須黒太郎恒高が勝呂に本拠を構え、健保元年(一二一三年)には社殿を再営して勝呂白山権現としました。明治時代に社号を白山神社と改め、明治四十二年(一九〇九年)に現在の勝呂神社となりましたが、今も「白山さま」として信仰を集めています。
本殿右脇にある「勝運霊石」
ちょうど、宮司さんとお話しすることができました。この下に石室があるようです。将軍様ならば強そうです。撫でると良いようですよ。合格祈願にどうぞ^^
また、この場所に土屋神社と同じように大杉が建っていたようなのですが、宮司さんが子どもの頃に雷が落ちて燃えてしまったそうです。火の粉をまき散らしたような凄まじさだったようです。結局、枯れてしまって、そのまま枯れ木を残しておくのも忍びないという事で切られたようです。
手前に大杉の痕跡が見らえます。
拝殿前から
とても眺めが良いです。裏で焚き木をしていたので白っぽくなっちゃっています(笑
こちらも偶然立ち寄った神社。しかし、素晴らしい空間と空気でした。冬の青空にとても記憶に残る出会いでした。2017.2
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・天神信仰(てんじんしんこう)は、天神(雷神)に対する信仰のことである。
・特に菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいう。
・本来、天神とは国津神に対する天津神のことであり特定の神の名ではなかったが、道真が没後すぐに、天満大自在天神という神格で祀られ、つづいて、清涼殿落雷事件を契機に、道真の怨霊が北野の地に祀られていた火雷神と結び付けて考えられ火雷天神と呼ばるようになった。
・後に火雷神は眷属として取り込まれ新たに日本太政威徳天などの神号が確立することにより、さらには、実道権現などとも呼ばれ、『渡唐天神』『妙法天神経』『天神経』など仏教でもあつい崇敬をうけ、道真の神霊に対する信仰が天神信仰として広まった。
・平安時代末期から鎌倉時代にかけて、怨霊として恐れられることは少くなった。この時代では慈悲の神、正直の神、冤罪を晴らす神、和歌・連歌など芸能の神、現世の長寿と来世の極楽往生に導く神として信仰されるようになっていた。また、貿易商から海難除けの神、皇族ほか歴代幕府・戦国大名などの武将達には、怨敵調伏・戦勝祈願・王城鎮護の神として信仰された。
・江戸時代以降は、道真が生前優れた学者・歌人であったことから、学問の神として寺子屋などで盛んに信仰されるようになった。
・近代に入ると、天皇への忠誠心を説く為に、忠臣として教科書などでとりあげられた。
・元々の火雷神は天から降りてきた雷の神とされており、雷は雨とともに起こり、雨は農作物の成育に欠かせないものであることから農耕の神でもある。各地に火雷神と同様の伝承で天神が祀られていたが、道真が天神さま、天神さんなどとよばれるようになり、各地で祀られていた天神もまた道真であるとされるようになった。また、北野天満宮や太宰府天満宮からの勧請も盛んに行われた。
・天神(道真)を祀る神社は天満宮・天満神社・北野神社・菅原神社・天神社などという名称で、九州や西日本を中心に約一万社あって分社の数は第3位である。by wikipedia
というわけで、天神社や天満宮は学問の神様だけだと思っていたら、時代時代で様々な信仰に変化してきたわけですね。
木製そのままの鳥居が良い感じです。
拝殿
素朴で美しい拝殿は、土地神様、農耕の神様主体のように感じられました。
拝殿右側に鳥居と祠が・・・奥に巨木が・・?
カゴノキでした。
スゴイ幹の模様です。「鹿の子木」確かに鹿の模様に似ていますね。
沖縄、四国、九州の温暖な地域の樹木が何故、この地にあるのでしょう?樹齢800年!!!関東地方第一(2011.5現在、環境省巨樹データベース)のカゴノキの巨木のようです。まだまだ、とても元気そうです。生命力がみなぎっていました。常緑喬木。天神社は九州、西日本を中心に多いようなので、そちらから持ち込まれたのでしょうか?
斜め後ろから・・・祠の裏に何か・・・
繭額でした。
鎌形八幡神社繭額が奉納されていましたね。この辺りでも養繭農家が多かったのでしょうね。
境内裏側からの大杉跡と本殿
どうやらスギの巨木もあったようですね。ググってみると、「この天神社には多和目の大杉と呼ばれるスギがあった。県天然記念物で、幹周:9m、樹高35m、樹齢950年で途中で2本に分かれている姿から夫婦杉と呼ばれたが、伊勢湾台風の時に先端10m程が折れ、その後樹勢が弱まり1981年には伐採されてしまった。」との事です。
境内の左側に変わったお堂がありました。
お堂の中には女性の像が・・・。吉祥天女様でしょうか?いろいろと調べたのですが良く分かりません。
ただ、京都の吉祥院天満宮の吉祥院に菅原清公卿、菅原是善公、伝教大師、孔子と共に吉祥天は祀られているようです。
菅原道真公の幼名の一つは吉祥丸。道真の祖父清公の遣唐使霊験譚以降、菅原家は代々吉祥天信仰になったという。by wikipedia
2017.2