鎮座(所在地)
山梨県笛吹市御坂町二之宮1450
景行天皇の時代(伝承)
式内(小)甲斐国 桙衝(ほこつき)神社(論社)
国司見在社
甲斐国二宮
旧社格:県社
大物主命
当美和神社は景行天皇の御代日本武尊により甲斐国造塩足尼が大和の大三輪神社から勧請し奉った甲斐國内での古社である。祭神は大物主命で木造衣冠立姿の御神体は平安時代の様式をもち重要文化財に指定されている。
後醍醐天皇の御代に一時杵衡神社と称し奉ったが一条天皇の御時甲斐国第二之宮の号を賜り年々一宮浅間神社、玉諸神社と共に甲斐国水防の祭儀を執行その御幸は國内をあげて大祭であった。
ために代々その國主の崇敬も厚く、社領の安堵社壇の造営も行われそれらの由緒を示す社宝も見るべきものが多い。
(以下略)
「美和神社境内掲示板(平成25年11月掲示)より抜粋」
JR中央本線 石和温泉駅下車
富士山駅方面行きバスにて「二の宮」下車 徒歩6分(550m)
中央自動車道 一宮御坂ICから県道211号を御坂町二之宮へ
本殿裏手に駐車場あり(鳥居と反対側)
※2020年8月時点では駐車場は使用できたが、本殿裏手付近で大規模な工事が行われていたので注意。
甲斐国一宮の浅間神社参拝後に、二宮の当社を参拝。
勝手に続けている二宮・三宮(場所によっては四宮以降も)シリーズの一巻である。
山梨県の参拝旅行と言えば何といっても石和温泉の石和健康ランドに宿泊してサウナ・おふろで身を清めて参拝させていただくことが私のもはやルーティーン。
というか、大変失礼ながら健康ランドに行きたいが為に参拝旅行を計画していると言ってももはや過言ではない。
一昨年に新宿泊棟がリニューアルオープンし、部屋のデスクが大きくなって仕事もしやすくなったので、テレワークやワーケーションに最適♪と勝手に思っている。
現在は県庁所在地が甲府市であり、武田氏の御館も甲府にあったので、政治経済の重心はどうしても甲府市なのかもしれないが、この頃の甲斐国の国府は笛吹市にあったと考えられている。
そういう意味で、石和温泉周辺というのは甲斐国の当時中心であったというのはちょっと言いすぎかもしれないが、中心のほど近いところにあったことは間違いない。
当社は名前の通り、美和=三輪で、奈良県の大神神社(当社の境内の由緒書きによれば大三輪神社と記載されているが、恐らく大神神社の事であると思われる)から勧請されてこの地に鎮座している。
本社は、式内小社である「桙衝神社」(ほこつきじんじゃ)の論社とされているが、諸説ある中、八代郡八代町米倉の「桙衝神社」を正とする意見が強いようである。
実際、『式内社調査報告』の桙衝神社の項には「追記」の扱いで記載されている。
『式内社調査報告』の中で本社を式内社とみなす意見(『大日本史』『神祇志料』)の根拠として、『日本三大實録』の中に、
貞観5年(863) 甲斐国従五位下勲十二等 物部神、従五位上 美和神
貞観8年(866) 甲斐国従五位上勲十二等 物部神、正五位下 美和神 宇波刀神 従五位上
貞観18年(876) 甲斐国従四位上勲十二等 物部神、正五位上 美和神
元慶4年(880) 甲斐国従四位上勲十二等 物部神、従四位下 美和神
という昇叙の記述を挙げている。
ちなみに、物部神は物部神社(石和)、宇波刀神は宇波刀神神社(巨摩郡)であることが確実のようだ。
そこで、美和神はどこなのか?ということになる。
美和神は延喜式神名帳の中に記載がなく、当社が式内社であった、という明確な証拠がない。
確かに、国司見在社として『日本三大實録』でこの地方で有力な神社であったことは間違いのないところであろうが、美和神=当社であるという確証もないようなのだ。
ただ、この美和神社はあくまで里宮であり、山宮としての位置づけが桙衝神社とするものもあるようで、ただ単純に式内「桙衝神社」の地位を争っている神社の一つ、というわけでもなさそうだ。
なかなかむずかしい。
一説には、大和の大神神社→(遷座)→桙衝神社→(遷座)→美和神社ともされる。
少なくとも九世紀半ばの時点で「美和神」として称えられて高位を与えられていた当社が、延喜式で「桙衝神社」とされていた神社からの名称の変更、というのは確かにちょっとなさそうな気もする。
そういう意味でも、桙衝神社から美和神社に名称が変更されたのではなく、あくまで主祭神を遷座した、という考え方の方が納得できる。
仮に式内社でないとしても、国司見在社として称えられてきた神社である事は間違いなく、その中でわずか17ねんばかりの内に従五位上から従四位上まで4ランクも昇叙していることから、篤く祀られてきた価値が下がるとは到底思えない。
少し不思議であるのが、遠く奈良の都から離れたこの地で、なぜ美和神=三輪神を篤く祀ったのか?という点である。
山の神様と言えばすぐ近くに日本の主峰「富士山」が控えているではないか。
当社には無形民俗文化財の「美和神社の太々神楽」があり、江戸時代(元禄期)から厳しい潔斎を要求された氏子の神楽員が奉納をし続けてきている。
この神楽は、当社及び岩崎の氷川神社、一宮町の甲斐奈神社にも奉納された歴史のあるのもので、当社の掲示板に寄れば全部で20の舞があるそうだ。
確かに、神楽殿と思われる建物が社務所とつながった渡り廊下の先にあり、境内に風格を与えている。
石和温泉駅からさらに1駅、普通列車で甲府に向かった場所にある「酒折宮」という神社がある。
ここは、古事記にも伝承の残る有名な神社で、日本武尊の逸話が残る地であるが、日本武尊が酒折宮を出発するときに、この美和神社を勧請した塩海足尼(しおみのすくね)に火打嚢を授けたという逸話が残る。
塩海足尼は時代で言えば古墳時代の豪族で、初代の甲斐国造とされる人物だ。
この人物が美和神社を勧請した時期が景行天皇の時期とされているので、日本武尊の伝説の時期にもあたる。
さて、現在当社は大幅な工事をしているようで、本殿裏手付近で整備が進んでいるようだ。(2020年8月現在)
私が参拝した時期はセミがうるさいほど鳴いている真夏で、周りには桃が生い茂り、桃とブドウ畑に囲まれたかのような地に当社が鎮座していた。
参拝後に近くのJA直売所で購入した桃は最高においしかった。
当方訪問時には社務所が無人で御朱印を頂戴できなかった。
ネット情報によると、宮司宅に電話連絡することで頂戴できた、とする方もいるようだ。