いろいろサボっていてALISへの投稿も久しぶりになってしまいました。
しかも、一時期隆盛を誇った「御朱印」カテゴリも廃れてしまってこちらも残念。
なかなかこういう状態では参拝にも行きにくいため、過去の参拝記録を紐解くことにしました。
コロナウィルス関係で神社仏閣も通常通りの参拝・参詣ができない状況が続いているおります。
その一方、「御朱印」を積極的にコンテンツとして利用しようとする神社・仏閣も増えてきたようです。
御朱印ブームの陰で、参拝マナーがなっていない人の話、やある種のスタンプラリーのように扱っている人の話はよく聞きますが、こうした御朱印などが神社や仏閣の「経営」を少しでも後押しするのは良いことだと思っています。
私はもう20年以上も御朱印帳片手に神社巡りを続けておりますが、本音を言えば御朱印の有無にそれほどこだわりはなく、古くて寂れた神社であっても、神社建立の縁起や由緒を是非分かるようにして欲しいと思っております、
一部の神社で提供されているような「由緒書」の配布、までには至らなくても、境内に案内を是非設置して欲しいと思っています。
御朱印としてのほんの少しの初穂料が、こうした神社の由緒を掲示したり、広報したりする費用の一部になれば、これほどの喜びはありません。
どんな神社にも、そこに地域の人々の祈りや願いが歴史的に積み重なって生まれているのですから。
「なぜそこにこの神社があるのか?」「なぜこの神様が祀られているのか?」考えるだけでワクワクします。
さて、神社巡りを続ける中、以前から非常に欲しい書籍がありました。
『式内社調査報告』という全25巻にも及ぶ大作で、あの「延喜式神名帳」に掲載された全ての神社を調査してとりまとめた書籍です。
国からの補助金も使い、昭和の時代に発行されたのですが、なにせ一冊10,000円(一部ボリュームが大きい巻は20,000円に及ぶ)の超大作なので、全部購入するとかなりな財布の負担になります。
しかも、発行から40年近いので、発行元の皇學館大学にも在庫が既にないものもあるらしく、これまでずーっと指をくわえて見ていたのです。
当方、神田神保町に職場がある事から、時間があると古書店で安く出回っていないか探しておりました。
しかし、あるときこんなことに気づきました。
「これって普通に図書館にあるんじゃない???」
横浜市立図書館で検索したところBINGO!
しかも特に予約されていないようなのですぐに借りられる!
(もっと早く気づけよ、という話ですが・・・)
神社を巡る前、参拝後にこの本に目を通しながら神社に思いをはせる。。。
なんと素晴らしい。
ということで、もう参拝から1年近くになる三重県の敢國神社の事を今回は書きたいと思います。
昨年のこの時期、あるプロジェクトの為に奈良県に頻繁に仕事で訪問していました。
奈良県はこれまでも頻繁に神社巡りで訪問しておりましたが、ある週末に「仕事も休みだし、ちょっと足を伸ばして行ける場所はないか?」と地図を眺めていたところ、三重県の西部にはほとんど行ったことがないことに気づきました。
令制国で言えばあの忍者で有名な「伊賀国」。
実は奈良県のすぐお隣で、レンタカーを使えばすぐに行ける、と思い立ち、一宮巡りを兼ねて行くこととしました。
鎮座(所在地)
三重県伊賀市一之宮877
斉明天皇4年(西暦658年)
式内社(大社) 伊賀國阿拝郡 敢國神社 大
旧社格:国幣中社
伊賀国一宮
神社本庁 別表神社
主祭神
大彦命(おおひこのみこと)
配祀神
少彦名命(すくなひこなのみこと)
金山比咩命(かなやまひめのみこと)
当初敢國神社は、伊賀の神奈備山・南宮山標高(350メートル)を遥拝する形で鎮座し、もとは南宮山の頂上に祀られていました。その後、山麓に降ろしてお祭りするようになったのが敢國神社のはじまりえす。大岩祭祀後からは古墳時代の祭祀用土器が出土しており、神が宿る御神体山を仰ぎ奉るかのようにお祭りが行われた。
斉明天皇4年(658)には、社殿が現在地に創建され奈良時代には、この地に大きな勢力を持った安部氏(敢氏)の氏神「敢國津神」をお祭りするようになります。『日本三大実録』には、「安部神」が「敢國津神」に神名を変え国家から神階を与えられる記事を見ることができます。また貞観15年(875)には、延喜式内大社に位置づけられ、伊賀国の一之宮へと神格が高められました。(『延喜式神名帳』)
江戸時代には、藤堂高虎が伊賀上野城の鬼門鎮護の神とし、慶弔19年(1614)には107石の神領が寄進されました。
主祭神は、孝元天皇第一皇子の「大彦命」で崇神天皇の時代に北陸・東海平定に貢献した四道将軍の一人をお祀りしています。このほか、医薬と酒造の神「少彦名命」と鉱山氏や鍛冶職人が信仰する「金山比咩命」をお祭りしています。
『伊賀一宮 敢國神社 参拝のしおり』より抜粋
南宮山の麓に鎮座する敢國神社は、伊賀国の一宮とされ、創建は斉明天皇四年(658)と伝えられています。現在は大彦命と少彦名命、金山比咩命の三神を祀っています。伊賀地域に広く伝播する獅子神楽に大きな影響を与えた「敢国神社の獅子舞」は、県指定無形民俗文化財に指定されています。
伊賀の国は、複数の土豪が連合(一味同心)し、話し合い(談合)で地域の平和を守っていました。彼らは他の地域から「伊賀衆」と呼ばれることもありました。ここは、祭礼を通じた伊賀衆の結集の場となっていたと考えられます。
神社に伝わる「黒党祭(くろんどまつり)」と呼ばれる祭りは、後に服部半蔵を輩出することになる服部一族の私的な祭であったとされます。起源は定かではありませんが、神事に携わる者は服部一族に限られ、黒装束に身を固める習わしでした。
敢國神社は、天正伊賀の乱の後、一時荒廃しますが、その再興に務めたのが、修験者の小天狗清蔵や藤堂藩初代藩主藤堂高虎です。修験道は忍術に影響を与え、藤堂藩は「忍びの衆」とも呼ばれた伊賀者を召し抱えていました。その二人が再興に尽力したことは、伊賀者の氏神であったことと関係しているのかもしれません。
『敢國神社 駐車場案内板』より
JR関西本線 伊賀上野駅から伊賀鉄道にて上野市へ
上野市からバス
JR関西本線 柘植駅又は佐那具駅からバス
名阪国道「伊賀一之宮IC」より出て、名阪国道のトンネルガードをすぐくぐる。
約1.1km 3分
大鳥居前の参道へ向かう道の向かい側に比較的大きな駐車場あり。
(駐車場内にバス停あり)
駐車場から表参道・裏参道共に150m位で大鳥居又は拝殿へ
奈良県奈良市からレンタカーで1時間弱、ちょっとしたドライブです。
当社は伊賀国一宮の古社で、現在の地に創建されたのは西暦658年だそうです。
それ以前から、当社の横にある「南宮山」という山の頂上に元々当社があったとのことですが、南宮山という山の名前も気になります。
近くの岐阜県に、美濃国一宮といえば「南宮大社」。
同じ名前が山につけられているのです。
南宮山に立てられているのに南宮神社ではないのはなぜか、このあたりも気になるところです。
駐車場は当社の参道の入口にあり、参道と並行して境内地が広がっています。参道の左手(北)が境内地、右手(南)が南宮山になります。
前記の通り、南宮山というのは岐阜県の「南宮大社」から来ているようです。
はじめなんとなく思ったのは、南宮山が「御神体」なのであれば、通常社殿や拝殿のの裏側に山賀久留のではないか、と思いました。ちょうど南宮山と社殿が相対しているような配置になっています。
御祭神についてはいろいろと経緯があるようです。
もともと、敢國神社の名前の所以である「敢國」とは、この地域の有力な氏族「阿閉(アヘ)」氏から来ているようです。
延喜式神名帳によれば、この地域は「伊賀郡阿拝郡」であり、神社の名前も「あへくに」という名称で、その名の通り「阿閉氏」がその祖神を祀ったことから当社が始まりました。
当社の主祭神である「大彦命」は孝元天皇の皇子であり、阿閉氏以外にも「阿部臣」「膳臣」「狭狭臣」「城山臣」「筑紫国造」「越国造」「伊賀臣」等の始祖となった人で、「四道将軍」の一人として名高い方です。
(四道将軍)
『日本書紀』に出てくる皇族将軍で、大彦命、武渟川別命、吉備津彦命、丹波道主命の4人。
崇神天皇の御代(紀元前88年頃?)にそれぞれ「北陸」「東海」「西道」「丹波」に派遣され、地方の敵を制圧して凱旋したとされる英雄。
大彦命は、四道将軍伝説では北陸道の制圧を担当したのですが、当社の北側の名阪国道を挟んだ向かい側1km程度の場所に「御墓山古墳」という陵墓があり、この陵墓の主ともされています。
”敢臣は阿閉臣にほかならない。この阿閉臣がこの地に定住したのは、その祖大彦命が四道将軍の一として東国に赴いた後のことであり、その時期は大和時代にあったであらう。当社の北方に多数の古墳群が存在し、ことに当社の北一キロメートルにある御墓山古墳は、東西一九間、南北二〇間に及ぶ巨大な前方後円墳であって、大彦命の墓と伝えており、このあたりが阿閉氏の本願とみてよい。”
『式内社調査報告 第六巻 東海道1』式内社研究会編纂 P.24 敢國神社より抜粋
※原本は旧仮名遣いで書かれておりますが、読みやすいように一部現代仮名遣いや漢字に改めて表記しております。
不思議なのは、当社の祭神に大彦命以外に少彦名命、金山比咩命の2柱が祀られている点です。
金山比咩命というのは岐阜県の美濃国一之宮「南宮大社」の祭神である金山比古命の兄弟で、伊弉冉尊の吐瀉物から生まれた2柱の神の一人であることから、南宮大社との関係を考えたくなります。(金山比咩命は南宮御旅神社の祭神)
前掲の『式内社調査報告』においても、元々は阿閉臣の本願であったことからその祖先神を祀った「敢國神社」が生まれ、その後に現在の南宮山に祀られていた当社を現在の地に移し、その際に岐阜県の南宮大社から南宮の神=金山比咩命を勧請して祀ったとされているのです。
つまり、当社の本質はあくまで大彦命の子孫である阿閉臣の本貫であったこの地に祖先を祀ることにあったのでしょう。
少彦名命が祀られた経緯は『式内社調査報告』の中でも不明としています。
各地の一宮を見ると分かりますが、数多くの地域で地元の神様を祀っています。
ですから、当社についてももしかしたら南宮山の麓にあるとは言っても、本当のところは少し離れた(しかも本殿の背後の方向にある)御墓山古墳=大彦命を祀るために、敢えて南宮山を背後にせず、向かい合わせになるような場所に祀られたのかもしれませんね。
さすがにコロナ渦とあって、参拝者は少なかったですが、南宮山の裾野に広がる森に抱かれたような立地で、しばらく頂戴した御朱印を眺めながらベンチに座ってのんびりしたのでした。
大鳥居脇の社務所にて授与
併せてお読みいただけますと幸甚です。
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