最近、一宮を巡拝される方が非常に多い。一宮巡拝専用の御朱印帳なども販売されているし、全国一宮巡拝会という組織もある。
実際、一宮を参拝して御朱印を頂戴しようと社務所を訪れると、全部ではないだろうが一宮を記載した地図を配布している。(幾つかブロックが分かれているようだが)
こうした地図を片手に巡拝するのは本当に楽しいものだ。
ところが、当方多少ひねくれているのかもしれないが、一宮を参拝しつつ、どうしても二宮・三宮(地域によっては四宮・五宮なども)が気になってしまう。
一宮でも論社(どちらが当該神社なのか議論があって確定していない神社のこと)がある位なので、二宮以下になると歴史の中に埋もれたり、没落してしまったものも多い。
最近、こうした二宮以下の神社も参拝していて強く感じることが、「地名は歴史を記録している」ということだ。
多くの地域に「二宮」「三宮」という町名が残っているのは、その地にその国の二宮・三宮が祀られていた何よりの証拠だと言うことだ。
そう考えると、町村合併などで地名を消してしまうことが、歴史に対して大変な罪にも思える。
今回は、前回参拝した伊賀国一宮・敢国神社に続き、同国二宮・小宮(おみや)神社を参拝させていただいた。
基本情報
三重県伊賀市服部町1158
斉明天皇4年(西暦658年)
式内社(小社) 伊賀國阿拝郡 小宮神社 小
旧社格:村社
伊賀国二宮
主祭神(小宮神社)
呉服比売命(くれはとりひめのみこと)
配祀神(小宮神社)
御名方命(たけみなかたのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
狭伯社(さはくしゃ)
少彦名命(すくなびこなのみこと)
津島社(つしましゃ)
健速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
春日社(かすがしゃ)
天兒屋根命(あめのこやねのみこと)
蛭子社(ひるこしゃ)
蛭子命(ひるこのみこと)
小宮(オミヤ)神社は、伊賀郡阿拝郡府中村大字服部字中之坊1158番地(現伊賀市服部町)に鎮座する延喜式内社で、服部氏の祖、呉服比売命を主神として奉斎し古来伊賀国二之宮と称される。
その境内社の「狭伯社」に少彦名命、健速須佐之男命、天児屋命の三柱を祀る。
拝殿正面に掲げられている神額は、中央に「小宮神社」向かって右に「蛭子社」、左に「狭伯社、春日社、津島社」がある。狭伯社は、粟島社、津島社、春日社を明治39年に合祀し狭伯社として小宮神社の境内社となった。
蛭子社は西明寺村伊美之長者藤原大膳大夫の守り神で、建永九年(1209)服部村に勧請された。
『延喜式内社 小宮神社 参拝のしおり』より抜粋
当神社は地元では、「こみや神社」と呼ぶ。
当社は延喜式内社で「小宮神社由緒記」には、「延長風土記」に服部一族が「服部里」の小宮神社と狭伯神社を祀っていた。
「伊水温故」には「酒ノ君ノ霊社也、号二ノ宮服部氏ノ祖神也」という「平城京出土木簡」に「伊賀国安拝郡服部郷表」とあり、当社は機織部の居住地と考えられ「おみや神社」の「おみ」は「紡績、麻績」の意との説がある。
元々は「おみや神社」と呼ばれていたのであろう。酒の神の祖も、機織りの祖も渡来人系でそれが服部族でありその祖神が中之坊の小宮神社と夏ハゼの佐伯大明神であった。
当社は、諏訪信仰の宮として一之宮の敢國神社に対して二之宮と称される。「加太越奈良道分間絵図」が台上寺に西に描く天王は「伊水温故」にある「天王宮、服部村西手、佐伯大明神、服部ノ祖神也、郷人午頭天皇トイフ」のことであり、明治41(1908)年に小宮神社に合祀された。
『延喜式内社 小宮神社 参拝のしおり』より抜粋
伊賀鉄道 上野市駅 徒歩約2km 又は上野市駅から三重交通バス26系統玉滝線にて服部バス停下車すぐ
JR関西本線 伊賀上野駅 徒歩約2km
名阪国道「伊賀一之宮IC」より出て右折し、県道138号線に入る。
松原交差点を左折、印代交差点を左折して国道25号線(大和街道)へ、約1km先を左折してすぐ
周囲に駐車場なし。
境内前の道路も比較的交通量が多い上に神社前の道がカーブしているので、路上駐車は避けること。
この日は、午前中に伊賀国一宮 敢国神社を参拝し、その後当社に移動。
一宮巡りは非常に人気があるのだが、二宮以下になると近世に寂れてしまっている神社も多く、あまりひとけがないケースが多い。
地図を眺めると、二宮(二ノ宮)・三宮(三ノ宮)という地名も多く、古くからその地に神社が祀られていて、今では残念ながらあまり顧みられなくなったケースも多いようだ。
それでも、地元の方々には崇敬されているのだと思う。
当社もそうした伊賀国二宮の尊称を与えられた古社である。
神職の方は残念ながら常駐しておられないが、もしかしたら祭礼の際には一宮の敢国神社よりいらっしゃるのかもしれない。(拝殿にてセルフで配布されている由緒書きによれば、連絡先が敢国神社となっている。)
一宮の参拝記にも書いたのだが、そちらでは地元の恐らく豪族・名家の祖先神を祀っていた。(阿閉氏・阿部氏)
こちら二宮も「由緒書」に目を通すと、あの忍者の代表格として有名な「服部氏」の祖先神である「呉服比賣命」を祀っているとのこと。
『式内社調査報告』の「小宮神社」の祭神の項をひもとくと、このように記載されている。
当社の祭神として諸書に伝えるところはまちまちである。『惣國風土記』には園韓神といひm『永閑伊賀名所記』『伊水温故』『伊乳記』には服部氏の祖神酒君を祭神としているとし、『三國地誌』には俗に諏訪大明神というとしており・・・
『式内社調査報告 第六巻』P.42 小宮神社 【祭神】より抜粋
のように、諸説あるようである。
現に、小宮神社の公式な由緒(神社公表の)では、服部氏の祖先神「呉服比賣命」を主祭神とし、配祀神として「建御名方命」、「大山祇命」が挙げられている。
『式内社調査報告』の中で、酒君を服部氏の祖先神としていることに関して言及していて、酒君は秦氏の祖先であるのでこうした記述は誤りではないかとしている。
一方で、小宮神社の由緒書では、服部氏の祖先神を「秦酒公」としているので、服部氏と秦氏が合わさったような説明になっているのも面白い。
そもそも、主祭神である呉服比賣命は、日本書紀に応神天皇の御代に我が国にやってきた工女として記されていて、機織りの神様として祀られている、という言及もある。
現代の感覚で「呉服」といえばまさに服飾の事である。
機織部(はたおりべ)が「服部」に変わったとも言われているので、元になるのはやはり機織神なのだろう。
機織りの神様が二宮で崇敬されているのも、まさにその機織りを司っていた服部氏に関係が深い(本当の祖先神かどうかは分からないが?)神様であったことなのだと思われる。
ちなみに、小宮神社は「おみや」と呼称するが、小宮は敢国神社の「大宮」に対する「小宮」とされているのだが、「こみや」ではなく「おみや」なのは、「をみ」が紡績や麻績を意味する言葉であるという説がある。なぜ「をみ」が「を(お)みや」となったのかは判然としない。
当社の由緒書にて「地元では、「こみや神社」と呼ぶ。」とされているのは、やはり地元の一宮「敢國神社」を大宮として「小宮(こみや)」なのだろう。しかしながら、「おみや」の理由はやはり紡績神としての「おみや(をみや)」と考えざるを得ない。
そうした紡績の神様を祖先としていた服部氏が、その後「忍者」の代表格として注目されるなど、恐らく当社が創建された当時、誰も考えていなかっただろう。
当社は服部川にほど近いところに鎮座していて、周囲は田園地帯といいたいところであるが大和街道など幹線道路からも近いため、道は広くはないが以外と交通量が以外と激しい。
しかし、当社の周囲は鎮守の杜に囲まれていて、ひっそりとしている。
恐らく社殿を改築されたと思われ、非常にきれいに整備されていた。
前述のように、車での訪問は駐車場もないため注意を要する。(当方も、大鳥居前に一旦路上駐車を試みたが、すぐ前にバス停もあり、交通量も多いので諦めてかなり離れた場所に駐車せざるを得なかった。)
神職の方は常駐しておらず、問い合わせ先は一宮 敢国神社(0595-23-3061)までとされている。
拝殿内に御朱印があり、自分で押印(セルフ)のこと。
御朱印の押印は8時30分~17時00分まで
200円の初穂料を賽銭箱に投入すること。
併せてお読みいただけますと幸甚です。
忍びの里の一宮を巡る(三重県)伊賀国一宮 敢國神社
【二宮・三宮を巡る】 何もかも謎だらけの三宮(三重県)波多岐神社(はたき)・宇都可神社(うつか)