

昨日、❤︎漆黒のニャー❤︎さんの記事を読み、また病気が出てしまった。
不可説不可説転って結局10の何乗なんだろうということに興味を持って、ちょっと調べるつもりで気が付いたら数時間経っていた。
だってこれがね、問題です、不可説不可説転は10の何乗だと思う??
正解は、10の(3.7×10の37乗)乗、こんなの見たら、何でだよ!ってなるでしょ??万、億、兆って増えていったとしたら9.25×10の36乗個の名前がないと足りないはずだ、どうみてもそんなには並んでいない、どうやったらあれだけの数でこうなる。
調べましたよ、これはもうバッチリ。

これが我々が普段使っている数。
数の名前の付け方を命数法というらしいのだが、一 ~ 万までは十進に従った命数法になっており、万 ~ 無量大数までは万進に従った命数法だ。このルールのまま進んでいって3.7×10の37乗になるのは無理、ではないけど、実質無理だ。
では不可説不可説転はどっから出てきているのか。

なんと、普段使っている数とは体系が全く違う数だったのだ。
洛叉が10万で、その100倍が倶胝、ここだけルールが謎なのだが、ここから先は同じルールだ、倶胝 × 倶胝 = 阿ゆ多、阿ゆ多 × 阿ゆ多 = 那由他、・・・、というルールに従った命数法になっている。数学的に言うと2乗の2乗の2乗の・・・という計算になる。10の7乗からスタートして121回2乗すると不可説不可説転になる。
この指数部分だけを計算すると3.7×10の37乗になるという訳だ。
あーーー、スッキリした。
ところで1つ引っかかることが残っている、洛叉から倶胝だけ100倍なのは何故だろうか、ここのルールはどうなっているんだ。例外には必ず理由がある、数学なら。

洛叉というのはインドの命数法のラークから来ており、インドの命数法は百進になっている、つまり100倍だ。どういう訳か最初の1つだけは借りてきたインドの命数法に従って、そこから急にオリジナリティを出したらしい。
なんだそれ、と思うが、これも仕方がないことで、洛叉より先の命数法というのは数学のために考えられたものではないからだ、こんな体系で数学をやらされたら面倒くさい事この上ないが、どうやら説教するために考えられた命数法のようだ。
我々が普段使っている万進の数の元になっているのは算学啓蒙という書物で、こいつは中国の数学書らしい、数学書だ、数学をするために考えられているのだろう、無量大数などの名前は仏教用語から借りてきているようだが、名前を借りただけで特にそれ以上の意味はないようだ。
一方、洛叉から始まる上数を使う命数法は華厳経に由来するらしい、こいつは大乗仏教経典ということだ、経典だ。計算する目的で書かれた訳ではないだろう、おそらく大きい数を表現する目的が計算したいわけではなく説教したいのだ。
そうであれば納得だ、確かに倶胝 × 倶胝 = 阿ゆ多、阿ゆ多 × 阿ゆ多 = 那由他というルールは数学的ではない、どう考えても使いづらい、しかし直感的に大きい数を作っていくのにはわかりやすいルールだと言えるかもしれない。
ガッテンガッテン
これで完全にすっきりした。
しかしここまで来ると何で不可説不可説転で止めたのか、ちょっと気になる、無量大数の方は、まあこのくらいまで作っておけば、それ以上大きい数を計算する必要があるとは思えない、という理由で止めたとも思えるが。
不可説不可説転の方は何か経典で語っている中身と関係する理由があるのだろう、何となくこの辺までで良いかといって止めるとは思えない、僧侶というのは突き詰めるためには死ぬまで修行することも厭わない人種だ、もうこれ以上は必要ないと言える確かな理由があったと考えるべきだ。
なんだろうか、3.7×10の37乗、37という数字に何かあるのだろうか、仏教に全く詳しくないので何も思い当たらない。というか、当時の人達が指数・対数の計算をすんなり出来たとは思えない、おそらくはそういう数字になっているということは知らなかっただろう。
んー、まあ良いか、どうせ数学とは何の関係もない理由だ、仏陀が砂浜を歩いた時に足の裏にくっついた砂粒の数が・・・とかなんかそんな理由だろう。
こういう話ってせっかく調べて誰かに話しても、嫌そ~~~な顔されるんだよね、僕としてはすごく楽しい話題を提供してるのに。その点でここに書くのは良い、読んでるときにどんなに嫌そうな顔をされていたとしても僕にはそれが見えない。
ーー おしまい ーー

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