恨みとは、毒を飲んでおきながら、その毒で相手が死ぬことを願うようなもの。
これは、ネルソン・マンデラさんの言葉です。
彼は、アパルトヘイトという人種差別の撤廃に尽力し、後1993年にノーベル平和賞を受賞した偉大な方です。
1990年代の日本では所得格差が問題となっていました。今でも問題となっています。ネットや新聞では所得格差を嘆く記事や労働環境を嘆く記事、政府の政策を批判する記事など様々な記事を見ます。
私はこのような記事は何が目的で書いているのかイマイチ分かりません。
批判や嘆きを書くことで世の中に現状を訴える、問題について考えさせることが狙いなのでしょうか?
それとも、同情を買って多くの人に記事を見てもらうことが大事なのでしょうか?
それとも、そのどちらもなのでしょうか?
どれにしろ、批判や嘆きだけを書く記事は不毛だと思います。
なぜなら、批判や嘆くだけの記事には未来を悲観するものか誰かへの嫉妬や嫌悪のどちらかが込められているからです。
まず、未来を想像して悲観することは時間のムダです。未来のことは誰にも分からないからです。未来を考えるより今を必死に生きる。
今起きていることに全力で向き合う、今やるべきこと、やりたいことに全力を注ぐこと以外私たちにやるべきことはありません。
「将来が不安。」とか「将来どうすればいいか」などはその将来が来た時に考えればいいことであり、今考える必要はありません。
また、誰かに嫉妬をしたり、批判したりするのも時間のムダです。これは、最初に紹介したネルソン・マンデラさんの言葉にある通りです。
批判された人や嫉妬された人はおそらくその意見に耳を傾けていません。その批判が的を得ていなければなおさらです。実際に、格差があることは間違いないですが、それらを批判するだけで何も考えずに働いている人たちは多いです。
また、誰かを恨んだり、誰かに嫉妬したりすることはその時間をその人に使っているということです。
自分の人生の中で誰かに時間を使う時は大切な人たち(友達や家族や仕事仲間など)だけでいいです。
その他に誰かに時間を使う行為は自分の人生の中で自分に使う時間を減らしているだけです。
私が伝えたいのは、批判や嘆くだけのことをするのは時間のムダであり、本当に人や世界を変えたいのであれば自分が今の世界の代案となり行動することが大事だということです。
批判ではなく代案を出す。
たとえ、完璧な代案ではなくても行動したあとに修正しながら徐々に作り出すことで完璧に近づけることをする。
そういったことを繰り返すことでいつかは世界や日本や地域を変えることができると思います。
代案と修正の繰り返し。これが私の言いたいことです。