マーケティングの理想は販売をなくすことーー。これは経営学の神様、P・F・ドラッカーの言葉です。
同感です。同様に「コピーライティング」もなくなるべきだと私は考えています。とくに昨今流行りの「煽り系」のそれはいただけません。できれば早々に退場してほしいと思っています。コピーライティングの正道を踏み外しているばかりでなく、マーケティングの健全な発展をも妨げているからです。
消費者もバカではありません。巧みな表現に乗せられ、買わされたものの、こんなはずじゃなかったと不満に思う人が増えれば、以後、財布の紐はより堅くなるでしょう。そうしてその堅くなった紐をこじ開けるため、さらに巧みなコピーライティングテクニックが登場することになります。そうしてまた騙される人が増えればさらに財布の紐が堅くなり‥と、その繰り返しです。
そんな抗生物質と耐性菌との戦いにも似た馬鹿げた繰り返しの末に何が待っているのでしょうか? 消費者の判断停止です。コピーライティングを読んでも、それが真実なのかフェイクなのか判断できない以上、そうする他にないでしょう。
そうした兆候はすでに現れています。口コミを重視することもそのひとつです。自分ではもはや判断できないため、そうした口コミに頼らざるをえないのです。そして、このプロセスがさらに進めば、将来多くの人がAIによるリコメンド機能に全面的に依存することになるでしょう。そこにあるのは主体的な判断を放棄し、すべての選択をAIに委ねるというディストピア的な未来です。
その世界には自分の脳で主体的に判断する人間はもはやいません。いるのは生活のすべてをAIの言うがまま行動するだけの主体性をうしなったゾンビの群れです。これはある種、個人の主体性を前提とした近代社会の終焉でもあります。なんともおぞましい未来です。
もちろんコピーライティングだけがそうしたおぞましい未来を引き寄せる元凶だと言っているわけではありません。どう転んだとしても、いずれそうなることが予想されるからです。しかし、それは間違いなくそのひとつであることでしょう。その意味で、今の煽り系コピーライティングは、そうした過渡的なプロセスの中に咲いた徒花のようなものなのかもしれません。
ちなみにその時、コピーライティングはどのような形態になっているのでしょうか? ひとつの方向として予想されるのは、それが生身の人間に対する情報提供ではなく、リコメンドを司るAI向けのそれになっているだろうということです。おそらくそれは今のようなレトリックを駆使した流麗な文章という形ではなく、たんなるキーワードの羅列か、それをもとにしたプログラミングのような形態になっているのではないでしょうか? AIが効率的に「読める」ようにするためです。
いずれにせよ、事実をないがしろにしてレトリック部分だけが奇形的に膨れ上がったいまのコピーライティングは前時代の遺物となるはずです。ちょうど訪問販売のセールスマンが絶滅したように、その時にはいま目にしているコピーライティングなるものもわれわれの視界から完全に消え去っていることでしょう。